「クーデター」と「革命」の肝心な部分は、
兵器の開発力よりも、既存している兵器の
数と運用が、もっと大切かもしれない。

   十八世紀末から、十九世紀初に、
フランスが起こっていた人類の活動の記録は
典型的な例かもしれない。

   





   世界の流れは一人の意識で変えるのか。
仮に世界の流れは一人の意識で止めなかったら、
数十人、数百人、数千人で、組んだ組織で、
変えるのか。

   数人か、数十人の場合に、世界の
流れを変えるには、やっぱりクーデターのほうが
効率がいいかもしれない。  クーデターは、
ピラミッドの上の部分の転換で、すむ
変革に近い。



   革命になると、数百人か、数千人、数万人以上、
地域が既存している武装組織に対抗できるほどの、
武装組織の設立と維持が、大切となる。

   食糧のルートの確保と、弾薬の確保も、
大切となる。







   地域の中央政府は、主に、地域内に
もっとも、安定でしっかりしている武装組織を
持つ組織である。







   中央政府にとっては、武装組織の財政だけじゃなく
地域の住民の生活に影響する財政に関わる政策も
責任も持っている、かもしれない。

   だが、革命軍にとっては、中央政府を
潰す前には、武装組織内の財政を維持できれば
十分という柔軟性が持っている。








   この千年間の記録をチェックしてみれば、
どんな時代でも、中央政府の腐敗と、所属している武装組織の
経営ミスによって、クーデターと革命を促すという。

   クーデターと革命は、地域内の人類が自発的に、
起こす秩序のシステムの変革に近い。





   他の地域の組織の利益のための拡張で、侵略か領土の奪い合うことは、
また、別のテーマにしておく。



 



   十八世紀末、フランスの王政政府が、前の戦争で、
緊急事態に対応する予算が、ほぼなかったという。
  
   それから、気候で、農産の低下によって、住民の
間に、食糧不足の現象が、起こした。

   住民にとって、同じ給料で、食糧を買うために、
もっと多くの予算が、かかるという。

 

    
   農産の低下によって、住民は、農場の動物も
むりやりに、ころして、食い始めた。

   そのために、畑に必要とする肥料の源がどんどん
なくすことで、さらに、食糧不足の問題が、悪循環したらしい。




   王政中央政府の財務大臣は、事態の緊急性を
意識していて、王族と貴族も、税金を払うべき、という
政策を出すべきに、アドバイスしたが、当時の、
王は、まるで、子どもかのように自分の利益を保つ
ために、断ったらしい。

   独裁王政には、そういう、欠陥が、隠れているという。
どんなに、住民に優しい政策でも、王の一人の自分勝手で、
政策が実行されない可能性が隠れているという。






   「王が自分の利益と面白さのために、住民の
気分をかまわずに、勝手にやるならば、住民も
王の利益と面白さを構わずに勝手にやるといい。」


    その大義が、あって、フランスに、革命軍
が現れたという。   革命軍のテキは、既存している
システムに、利益をもらっている王族と貴族である。

   既存しているシステムで利益をもらっている王族と
貴族は、抵抗があっても、おかしくはない。

   大切なのは、既存しているシステムの中に、
せいかつが、くるしんでいる民の数が、王族と貴族より
多ければ、革命の生活する可能性が高くなるという。





    そのころのシステムは、管理階層とろうどう階層が
隠れているという。

    つまり、畑を所有しているひとが、レンタルの
手段で、畑のもってない人に、貸して、畑をレンタルした
やつが、農産をしながら、畑の所有者に、レンタル料を
上げるという。

     このように、貴族にとっては、王族が認めている
土地の所有権が握っていれば、畑のレンタル料を取るだけでも
安定な収入が保つという。

    その資本をさらに、他の産業に、投資していれば、
より、安定な収入のシステムを確立するという。

    そのころに、王政の政策によって、生じたシステムは
今の資本主義によって、生じたM社会に近いかもしれない。

    M社会とは、会社の管理階層が、会社の収益を
大きく握っていて、ピラミッドの下のろうどう階層が、安定な
給料をもらっているシステムで、会社の地球レベルの拡張する
ことによって、ピラミッドの上の資本の拡張は、理論的に
無限に近いが、ピラミッドの下のろうどう階層は、きまっている
給料に限られているという。

    このように、現代でも、法律的に、貴族の名がないが、
実質な貴族が隠れているという








    十八世紀の1789年七月、住民が組んだ組織は
バスティーユ刑務所に、襲撃した。  その目的は、
刑務所の弾薬庫に隠れている武器と弾薬の略奪だった。

    典型的な寄生型戦術と、考えられている。
つまり、既存している兵器を略奪することで、革命軍の
初期の資本にする例である。

    当時のバスティーユ刑務所は管理人を
含めて、ただ八員なので、数千人以上の民には
かなわなかったらしい。  

    計画は順序にすすんだようです。
    
刑務所の管理員が、住民に攻撃を
やめて、と、命令してみたが、結果的に、
管理員が、住民に殴られた後に、処刑された。




    1789年八月、王族が、住民の行動を鎮めるため
、住民に利益になる憲法を立てた。
  
     その憲法によって、教会と、貴族が住民に
収入の十パーセントぐらいの保護費を取る特権が、消された。

    1791年、地方の一部のリーダーが、フランスの王政を
排除し、共和政に移すと提案した。  一部の地方リーダーは、
王政を保ちながら、憲法を立てるに提案した。
 
    どっちが正しいかどうか、というよりも、ただ、
己の正義を信じて戦えばいい。 迷った時は、自分の
勘に従えばいい。  最終的に、チカラをもつやつ
こそ正義にちかい。

    宇宙の流れは、最終的に、かってたったやつを
選択したからこそ、さいしゅうてきにたったやつは、
あたらしいせいぎとなる、かもしれない。

    そういう言葉で、通じない曖昧な部分は、
やっぱり、武力で、破壊するしかない。





     憲法は骨ならば、法律は筋肉みたいなもの。
     法律は主に、憲法に逆らっていない方向で、
     詳しく立てられているという。



    1791年から1794年まで、パリに、
処刑台が、設置されていた。
   
     その三年間に、革命に反対するやつが
約6万員ほどに処刑されたという。
 
     1793年一月、元王政のリーダーとしての
王が、住民が、組んだ議会の判決によって、
処刑されたという。

     つまり当時は、中央政府よりも、住民の
組織のほうが、チカラを持っていたという。
そして、中央政府は、住民の行動を抑えられなかったという。

   


     1793年一月に前の政権の王が処刑された。
   
     その後に、もっとも、武装力のある組織が、
フランスの中央政府に移しはじめた。

     その武装組織は、手に入れたばかりの
けんりょくを、維持するために、リスクになりそうな
対象を、処刑したり、追い出したりしはじめたらしい。

     やがて、組織内にも、そういう
高圧的な手段に反感を持つひとが、表れ、
1794年に組織内に、クーデターを起こして、
元のリーダーが処刑されたという。



    その後に、新政府を成立しはじめた。

    その新政府の武装組織の中に、
ナポレオンという元王政軍の軍人が、
指揮官として雇われた。

     ナポレオンは、1785年に少尉として
王政軍で、1989年まで、働いてたらしい。
その後に、革命軍に参加した。

     ナポレオンが、元王政の軍事学校出身で、
戦争の手段について、習ってきたらしい。


     1793年12月、ナポレオンは、
軍事学校で習ったことを生かして、革命軍を
指揮して、フランスの元王政を助けようとして
来襲したイギリス艦隊を撃退した。 その実績で、
ナポレオンは、24歳で准将に昇格した。
立てたばかりの新政府にしては、ありうる昇格だな。
多分新政府にとっては、兵を指揮できる経験者が
すくなかったんだろう。  


     1794年ナポレオンは命令違反で
イタリアへの派遣命令を断ったので、准将の
階級が取られた。

     1795年政務官の高層幹部は、
改めてナポレオンを採用し、中佐の階級を
与えた。
     ナポレオンは元王政の残存勢力を
安定に制圧した実績で、中将(ちゅうじょう)
に昇格した。   首都の防衛機関の司令として
任命された。

     1796年、新政府は、ナポレオンを
指揮官に任命し、イタリアに進軍するのを命令し
、ナポレオンは勝利を得た。

     ナポレオンは、イタリアの王政を
強制的に排除し、共和制を投入し、イタリアに、あたらしい
秩序の体制を構築した。

     イタリアでの勝利で、ナポレオンは、
フランスの住民の信頼をさらに得たという。

     それからナポレオンは、さらに、
軍を持って、イタリアの南側にある海の向こうの
イジプトへ進軍した。
    
     イジプトへの進軍に、砲撃武器の他に、
数百名の専門学者と何千冊の本も連れていたらしい。

     ピラミッドを発見し、中に、探察し、
古代文字に書かれている泥板を持って帰って
研究したらしい。

     ナポレオンの軍隊は、エジプトの
ある港の辺りで、当地の武装組織と決戦し
2万員ほどの兵力で十万員の兵隊をつぶして、
勝利を得たという。 武器と戦術の格の差と
考えられている。 ナポレオンは多分、
武器の最大限を発揮する戦術を選んでいたんだろう。

   
    エジプトの武装組織に勝ったが、
海岸に泊まってた艦隊は、イギリスの海軍に
破壊された。  400隻の中に、2隻だけが
生き残ってた。

    弾薬と食糧の補給が影響され、
フランスが、インドに、進軍する計画が、
影響されたという。

     食糧の補給不足で、兵力が、
大破したようです。







     1799年八月、ナポレオンは、
パリに戻ることを決めた。
   
     1799年十月、進軍の勝利の実績を重ねてきた
ナポレオンはフランスに帰って、フランスの多くの住民に歓迎された。

  


   1799年十一月、ナポレオンは、クーデターを起こして、
成功した。

    その後に、政体に変革をもたらした。

    政治、教育、司法、行政、立法、経済など、
具体的な変革を提案したという。

    どうやら、ナポレオンは、そういうことについて
よく、考えていたんだろう。  けんりょくがてにいれ時に、
一気に考え方を実行したんだろう。

    クーデターが成功した後に、フランス民法典の
設計が始まった。

    一部のコンセプトは、革命の初期に立てた
憲法に基づくという。

    この法典は、5編で合計45章があるという。


     
     最初、法典は、一部のやつの自分勝手と
勘によって、作られて、さらに百回以上の会議で
少しずつ修正してきたらしい。 その根幹は、
革命初期に立てられた憲法の理性原則に基づくという。

     実際に、法典が実施し始めたのは、
1804年で、実施した後にも、手ごたえが、わるくなかった
らしい。  そのため、当時に設計した法典は、百年以上も、
フランスの中央政府に採用し続けてきたという。

     ドイツ、スペイン、スイスなどの
中央政府も、その法典を参考して、一部の法律を
立ててたという。





      1805年8月、オーストリア、イギリス、ロシアが
対フランスのため、同盟した。

      1805年10月、ナポレオンの指揮で、
フランス軍は、ドイツのミュヘンを占領した。

       それから、オーストリアで、たたかって、
反フランス連盟は、投降して、オーストリア王権が、
フランスに解体された。





      1807年6月、フランス軍はロシア軍とポーランドで
対決しかってた。   フランス軍と、ロシア軍の指揮者が、
会って、「平和条約」を結んだ。

      人類は、子どものころから、自分の利益などを
保つために、ウソなどをつくので、「条約」というものは、
あんまり信じないほうがいいかもしれない。

      フランスは、ヨーロッパ大陸側とイギリスの
貿易を禁止する命令を出した。

      フランスは、武力で、ドイツ、ロシアなどに
従わせたという。





  
 
     1807年末、スペインの民が、革命
しようとしていた。

      当時のスペインの王が、おおくの
住民にふしんされていた。

      ナポレオンは、このチャンスを持って、
フランス軍を指揮し、スペインに進軍して、スペインの
王政を入れ替わった。

       だが、スペインの住民の反発が
絶えなかったらしい。
    
       1808年イギリスは、スペインの住民の
反発に載せて、援助した。

       その後、フランス軍は、スペインから、撤退した。









      1809年、オーストリアは、ドイツを占領した
フランス軍に奇襲した。

      ナポレオンは、スペインから撤退し、
ドイツとロシア側の鎮圧に集中しようとしていた。

       オーストラリアが、敗戦し、土地の
譲り条約を結んだ。



  
        どうやらヨーロッパ側では、
19世紀初、既に、たたかって、まけた側が、
土地を譲る条約を結ぶ戦争ごっこに、やって馴染んできたらしい。

       通りで、20世紀初の、WWIと
WWIIに順序よく、アジアを殖民していってたわけだな。




   

      1811年、ロシアは、フランスといっしょに
イギリスを対抗するのを断った。
   
      それから、フランスは、70万員ほどの
兵力を持って、ロシアに、進軍しはじめた。

      フランスのそういう反応は、百年後の
ドイツのヒトラーの指揮スタイルとはちょっと似ているかもしれない。

       命令に従わなかったら、進軍し始めるって感じ。

      

    
      
        ロシア軍の戦略は、抵抗せずに、
撤退し続ける。  ロシア内の、冬の寒冷さを、運用し、
自然に、来襲したフランス軍の兵力を、削る戦略だったらしい。

        ロシア軍は、撤退しながら、元の町を
フランス軍が利用できないように、破壊したらしい。

        フランス軍が、ロシアの首都であるモスクワ
に至った時に、城内には、ロシア軍が自滅のように、火をつけていて
フランス軍に利用されないように、破壊しはじめた。

        フランスに、クーデターをしようとする
やつが、いて、失敗したことがあって、ナポレオンは、
フランスに帰ることにした。

        ロシア軍の自滅撤退戦法によって、
フランス軍は、45万員ほどの兵力をそうしつしたらしい。

        最終的に、フランスに戻ったのは、
2万員だけらしい。

         70万員でロシアにいったが、
帰ったのは、たったの2万員。

          

       70万員は、一見、勝ちそうにみえるが、
消耗する食糧も普通じゃないので、進軍に耐久戦に至ると、
ちょっとあれになるかもしれない。

        
        百年後に、ドイツが、ロシアと戦う時には
なるべく、冬にしないように、注意したという。

        他に、ドイツも、あんまり、スペインと
作戦しないように、選択したらしい。 なぜなら、スペインの
住民が、比較的に、しずめにくいらしい。


       

        

          1813年、イギリス、フランス、ドイツが
六回目の反フランス連盟を締結し、フランスと、たたかった。

          1813年十月、フランス軍が、
戦場で、まけはじめた。

          フランス属する植民地も、
フランスのチカラが、よわまっていることに乗って
独立し続けた。

          同盟軍はフランスの首都で
あるパリに、進み始めた。

     

   
          1814年三月パリが、同盟軍に
占領された。


          1814年四月、当時のフランスの
最高指揮官であるナポレオンは、無条件投降した。

          その後は、地中海のある島に
追放された。   多分、ナポレオンが、フランスの住民に
支持されるので、処刑されてなかったんだろう。





         1815年2月、ナポレオンは、
こっそりと、フランスに戻って、政権を奪還しようとしていた。

         王は、住民の反発に、おそれているので
抵抗せずににげたらしい。

         ヨーロッパの他の地域は、情報を
得た後に、七回目対フランス同盟を締結した。

          1815年6月、ナポレオンが指揮した軍隊は、
ベルギーでの戦いで、イギリスの指揮官に指揮した同盟軍に
負けた。

          1815年7月、ナポレオンは、投降した。

          それからナポレオンは、太平洋の
島に追放された。

          六年後の1821年、ナポレオンは、
島で、なくなった。  織田信長とは、同じく50年ぐらい
過ごしていた。



          19世紀初のフランスとドイツ、イギリス、ロシアの
関係は、21世紀初の日本と朝鮮、中国に、似てるらしい。

          領土の問題で、各地域の軍隊の
幹部が、実際に、戦争になったら、どのように対応することに、
計画しはじめたらしい。

            やっぱり、ただの数百年間で、
人類の遺伝子は、あんまり、変わらない。

            人類の本質は18世紀末から
21世紀初まで、多分、ずっと変わっていないという。

            



          既存している僅かの利益を守るために、
大きく影響をもたらす戦争を起こそうとするという。

          なんで、相手のために、犠牲しようとする
こえがあんまりないだろう。




       制度はいくら、変わっていても
やっぱり、人間の本質は簡単にかわらないと、
感じました。







  地域の住民は、中央政府の一部のやつの意識と
決定で、生活が大きく変化すること。

  たとえば、。強制教育の内容の変化、
強制徴兵の内容の変化など。

  それと、保護費などの変化。




  中央政府は、一体、保護費を取って、
何をやっていたんだろう。

  保護費に取られる代わりに、住民は
やっぱり、意識的に、中央政府が、
作った施設を、運用したほうがいいかもしれない。

  たとえば、図書館、公立学校、
公立プール、公立博物舘、公立美術館など。

  公立学校のメリットはやっぱり、
かかる費用が、私立学校より、経済的な
値段が設定されているかもしれない。

  住所の選択はやっぱり、
中型以上の図書館と、駅に近いのが、
わるくないかもしれない。

  ちょっとはなれていても、
駅の近くにいれば、なんとなく
つけるかもしれない。

   








  中央政府の一部のやつの決定が、
自分の考え方とおおきく外れていたら、
たまに住民が、そういうのを知った以上に
それを止めたり、変えたり
する義務と権利があるかもしれない。

  私はそれを革命権と呼ぶ。

  他人の自分勝手によっての勘に
信じるよりも、むしろ、自分の自分勝手によって
生じた勘に信じるといい。

  組織の運営は、予算の循環システムさえ
確保していれば、活動し続けるかもしれない。

  組織が設立された初期の機動性と
隠蔽性は、よくいかすといい、かもしれない。

  




  設立の順序は、まずが情報部で、
次は、実行部隊。

  情報部は内政部に近い。
  実行部隊は、軍隊と警察のシステムに近い。

  このようなメイン根幹で、少しずつ、
実際の必要によって、少しずつ部門を、
分けていくといいかもしれない。










   会社の設立も、それに近い
かもしれない。

   営業部が、内政部に近い。
   工場が、軍隊と警察のシステムにちかいという。



   会社の規模がおおきくなるほどに、
政務官などの決定によって、生じた利益の
格差が出てくるという。

   そのため、この百年間に、
商社の幹部と政務官の幹部などの、
つきあいが、すくなくないという。

   商社の幹部にとって、計画の
実行に影響する肝心な政務官さえ、
説得できれば、経営によっての利益の
格差が。出てくるかもしれない。

  商社にとって、既存しているシステムの中に
実際に決定権を握っているやつを、
分析して、見つかることも、大切かもしれない。