三ヶ月前ぐらい、大学卒業した後に、
ちょっとだけ、しょうらいのことについて、かんがえてみると、
元々、当たり前、と思ってた、町の景色は、
やや、違う感覚で、感じてきた。
同じ、景色なのに、感覚が、
やや、かわった。
当たり前のように、まいにち、
コンビニで、バイトしたり、スーパーで、バイトしたり、
レストランで、はたらいていたり、いろんな
ひとが、ちょっと、当たり前じゃなく、みえます。
自分も、ガソリンスタントか、レストランで、
働いたことが、あるが、かせいだのは、
ぜったいに、はらわなきゃならないことに、
つかうひつようはなかった。
だけど、ちょっとだけ、しょうらいのことを、
かんがえてみると、たまに、そういう時が、
くる、かもしれない。
そして、だんだん、しごとに、しばられる状態も、
なんとなく、かんがえられる。
なんねんも、おなじようなところで、あらわれて
なにかを、くりかえしているひとのきもちは、
だんだん、わかってきた、かもしれない。
社会を動かすシステムに、
周りのひとに、まんぞくさせて、報酬もらわないと、
生体反応を、維持する養分をもらうことですら、
だんだん、できなくなる、という。
この「生体反応を維持する養分」を、
もらうために、最低限な「活動量」が、
かくれている、かもしれない。
その「最低限な活動量」によって、
この数十年前、自分が、当たり前のように、
みえてきた、町の景色を、維持してきたという。
当たり前のように、学校に、現れる
教師。
当たり前のようレストランに現れる料理人。
当たり前のように、トラックを運転し、
素材などを、運ぶひと。
当たり前のように、店で、何かを、うってるひと。
当たり前のように、病院で、あらわれる医者、看護師。
数十年、当たり前のように、みてきた、景色は、
すこしずつ、かわってきた。
同じ景色なのに、かわったきがする。
自分もいずれ、その「最低限な活動量」で、
「生体反応」を、維持するために、
また、ほかのひとにとって、当たり前の景色の
一部になるだろう。
いろんなことは、たぶん、
あたりまえではなかった、かもしれない。