より、完全に、ある言語のイメージを、
脳に仕掛けるために、やっぱり、「音」の情報を、
中心に、「文字」に、拡散するのが、大切、かもしれない。
特に「ネイティブなどの、発音が、参考になれるかもしれない」
たとえば、日本語の「火口」だと、
最初、漢字だけ、みた時には「ひぐち」と、
よんでたが、実際には、ネイティブが、その「火口」を
みる時に、自然に「かこう」と、呼ぶらしい。
何十回ぐらい、「火口」を、「ひぐち」で、
よんでしまった私は、突然「かこう」のほうが、
ネイティブのほうが、よく、よんでいると、しっていても
とつぜんに「火口」を、「かこう」と呼ぶことに
なれるには、ちょっと、時間が、かかりました。
そういう、「誤差」を、避けるために、
やっぱり、「もっとも最初から、音などの情報から、
その字をを、もっとも、ネイティブなどに、
よばれているよみがたを、しったほうがいい、かもしれない」
「自分の勘で、よみがたを、きめるより、
やっぱり、実際に、ちょっと、確認したほうがいい、かもしれない」
最初から、ちゃんと、ただしく、確認していれば、
後が、まちがって、よんでしまったことで、もう一度認識し、
なれることも、さけられるはずです。
それから、「よばれている文章」の認識などより、
最初はやっぱり、「ゆっくりに、きこえられる音的な情報から、すこしずつ、
その音の感覚を、なれたほうが、いい、かもしれない」
赤ん坊が、最初に、ことば、を、学ぶときの光景を、
かんがえてみれば、最初に、「パパ」とか「まま」とか、
をよめるようになる時にも、何度も、繰り返して、
きいてた、はずです。
あたらしく、しった単語などを、慣れるには、多分、その現象を、
繰り返して、再現するといい、かもしれない。