私という「意識」は、
私が、タイピングした「文章」によって、
「具体化」になった、という。
つまり、その「具体化した文章」が
「私という意識」から、生み出したもの、である。
だが、「私がタイピングした文章」が、
かならずしも、「私の意識」ではない。
その「私の意識」でさえ、
まいにち、いろんなきいたこと、と、
みたいもの、によって、変わっているという。
つまり、そういう自分が、
かいてた、文章も、
いずれ、その「私の意識」ではなくなる
かもしれない。
今の私は、できるだけ、
「今の私の意識」という、「今の脳の分子配列」によって、
できるだけに、「モジ」という形で、
保存できるような状態に、するしかない。
それだとしても、
そういう保存した過去、このカラダが、
タイピングした、文章は、
限られていた「言葉」の組合によって、
私の意識を、記録するしかない。
アーリンと、アーリンの理解の限界も、
たまに、その「限られていた言葉の単語の数」に
限られているだけ、らしい。
どうやって、その「限られていた単語」を
さいだいげんに、サバイバルに、いかすのか、
おれは、たまに、かんがえてみる。
たまに、いろんな時期によって、
同じことへの、感想が、かわるが、
実際におこったこと、客観的な記録では、どんな時期の俺でも、
否定できないという。
そして、ある情報は、輝いていた。
それが、「この宇宙の物理指数である」。
たのしいとか、かなしいとか、そういう
曖昧不明なかんじょう的な言葉とは、ちがって、
「物理指数の客観性」は、どんなジキでも、つかえる、らしい。
哲学の意味は、「物事の本質」である。
「2-1=1」
という情報は、
多分千年前も、千年後も、
どんなに、かわっていても、
それだけは、かわらない、かもしれない。
わざっとひていしようとするやつも、あんまりない、かもしれない。
「物理指数」とは、これにちかいもの。
ある記号で、周りの物質が動くルールを
表す。
分子の活動から、衛星の動き、惑星の動き、恒星の動き、銀河の動きまで。
なんで、イチネンは、365ニチで、あんまり、かわらないか。
そして、なんで、「タイヨウ」が、私が、いしきがもってる以来、
24時間ぐらいを、一回の循環として、ソラに、あらわれるか。
周りの分子の流れには、「何かのルールに従って流れている」
ニュートンと、アインシュタインなど、が
あらゆる観測情報などを、かさね
ある記号で、否定されないように説明しようとしていた。
「ニュートン力学」から「相対性理論」
気づいた、振動に、説明しようとしていた。
では、彼らが、気づいてない振動の中にも、
また「何かのルールが隠れている」だろうか。
仮にそういうルールを、
さらに、あらゆる観測によって、
成立していたら、
多分、「うんめい」みたいなもの、で、さえ、
あらゆる演算によって、
予測することができる、かもしれない。
つまり、「カオス」という名詞は、
ただ、アーリンが、まだ、気づいていない
ところに、つかうために、つかった言葉、かもしれない。
実際に、この宇宙では、
「カオス」などが、ない、かもしれない。
あらゆる物質が、「何かのルール」に従ってながれている。
まるで、ドミノ倒しみたいに、
「何かのルールに従って」次から、次へ、規律あって、倒れていく
動いていく、かもしれない。
ニュートン力学をふくめてい、さまざまな
ブツリモデルを、確認していたアインシュタインでさえ、
自分の勘によって「カミはサイコロを振らない」と
ふきだしていた。
タイピングの今の俺の
脳の中の粒子の活動と
どこか、での地震、雨なども、
同じく、その「何かのルール」に
したがっているかもしれない。
その「何かのルール」の一部を
説明しようとする理論には、
「ニュートン力学」と「相対性理論」、らしい。
その「何かのルール」を、
さらに、もっと、全体的にりかいするために、
アーリンが、できるのは、
多分、観測と探察をかさねて、客観性をたもち、記録し、
データを分析し、その中の規律から、ただしそうで、
じっけんなど、で、ひていできない理論を、構築してみるしかない、かもしれない。