たまに、感情抜きに、周りの分子の流れについて、


観察しようとしていた。




   アーリンの行動と、鳴き声(なきごえ)によって、気分の変化について注意した。





   そして、鳴き声(なきごえ)に、音量に注意した。


さらに、ちょっと大きく感じる鳴き声の原因について、たまに、原因を、考える。




   

   アーリンが、大声で、鳴く時には、たまに「大喜び」、「怒る」、「痛み」・・・など


に関わっている。  つまり、そのような時は、もはや、相手に、何かを理解させようじゃんくて、


ただの、情緒的な散発に近い、かもしれない。




  



   たまに、しらないアーリンが、半径30メートルに入る時には、要注意。


知り合いの口を予測するのは、ちょっと無理、かもしれない。


   知らないアーリンの口は、さらに、予測が掴めないという。




   


   たまに、アーリンの鳴き声(なきごえ)によって、生じた


負の感情を感じる時には、「口は災いの門」というコトワザを思い出す。







   アーリンは、知らないアーリンの言うことに、


あんまり、信頼しない。


   知らないアーリンより、自分が、知って好きな人のほうが


言うことが、イメージがつよい。


   たとえ、同じセリフだとしても、アーリンによって、


影響は、それぞれ、ちがう。







  そして、アーリンには、たまに、知らないアーリンのこえに


自然、ケンオカンが生じるという特性がついてる、らしい。


最初に、こえにケンオカンが生じたら、むろん、


ないようは、あんまりききたくなくなる、らしい。









   おれは、その現象をうけいれ、さらに、原因を考えました。





   そのような仕掛けは、サバイバルにいい、かもしれない。


アーリンははなれようとするのは、「ケンオカンがしょうじた」という要素がついてる。


つまり、ケンオカンが生じないと、わざわざはなれないようにしても、かまわなくなる。





   そこで、もし、そのしらないひとには、危険性がある場合に、


はなれないと、ちょっと、危険にあうという、かもしれない。






    そこで、Bというしらないひとに、対して、ちかづく。


    と、Cというしらない人に、対してはなれる。


    という二種類のアーリンには、Cのほうは、


    サバイバルにいい、かもしれない。







    何だか、たまに、しらないひとをりかいしようとして、


かんさつするのは、たまに、せいしんりょくが、かかる、らしい。


普通だったら、大丈夫かもしれないが、たまに、ちょっとやっかいな特性がついてると、


ちょっとあれ、かもしれない。  そういうのは、慎重したほがいい、かもしれない。


たまに、関係をゼロか一以下に保持したほうがいい場合がある。


たまに、一ぐらい生じると、後は、二も、三も生じてくる、かもしれない。


一が生じそうな場合で、決断力によっての行動は、ポイントとなる、かもしれない。












   それから、他のひとの「命令」と、「質問」に注意したほうがいい。






「質問」は何種類もある。






  I、相手は、ただ、自分の、ウワサセンサーを満足するだけ。


   たとえ、自分が、真剣に変じても、それだけ。




  II、相手は、自分の返事によって、アドバイスする。





  III、相手は、何か、直接に言わない狙いのため、間接な質問をする。


    その時は、相手の狙いによって、ごまかすかどうか、返事するかどうかを


    ちゃんと考えたほうがいい。  


    ほかのひとを、利益の道具にするひとは、たまにある。


    たまに、ともだちには、あんまりカネというものに、かかわらないほうがいい。


    もし、あいてが、カネのためで、何かをしようとすれば、


    それは、たもだちかどうか、おれは、うたがう。







   IV、単純的なおこるなど、の、情緒の散発。


     たまに、それ以上、返事する必要はない。


     たまに、絶ちに、距離をおいたほうがいい。


     たまに、感情になりすぎるひとには、


     問題を解決するわけがない、かもしれない。




   V、・・・など。





  


  命令の種類にも、いくつか、ある。


従うかどうかは、自分で、考えて、行動する。


他のアーリンのいうことは、所詮、自分の行動の参考にすぎない。


命令は、絶対に従う必要はない。


だって、ただのアーリンの鳴き声じゃないか。


特定のアーリンにいい感じをさせて、何かやらせてあげたら、


誰か自分にやってくるのか。


もし、誰かが、自分で、分子の流れを観察して、自分の好みによって、


何かを言ったりしったり、だとしたら、


自分も、そうすればいい。 


自分も、自分の目で、周りの分子の流れを観察し、


自分のたましいで、観察した情報によって、行動すればいい。











   



たまに、自分も、他の人の行動によって、


不満を生じて、相手を命令して、相手を変えようとする。


あれは、「おこり」の源(みなもと)、かもしれない。




そもそも、自分の回りの分子は、ただ、何かのルールに従って流れているだけ。


たとえ、自分が、その周りの現象で、止めても、


条件さえ、満たせば、まだ、おこるという。


たまに、どうでもいいことは、どうでもいい、かもしれない。





不戦勝(ふせんしょう)ということについて、かんがえてみた。


戦ってから、勝ったり、負けたり、逃げたり、より、


その戦いが、現われそうなときに、場合によって、たまに、絶ちに、


さけたほうがいい、かもしれない。


つまり、必要じゃない戦いは、なるべく、さけたほうがいい、かもしれない。


そこで、何かが、自分にとって、一番大切なものなのか、


それを考えるひつようがある、かもしれない。


それを基準として、いきていけば、


いろんな状況があっても、大切なものは、心を


導く、かもしれない。








  そもそも、世の中には、いろんなことはうねりのようにながれている。


一見、理不尽なことでも、実際に起こったら、それ、円の中心が


認めたから、起こったという。 起こったことは、必ず、それなりの理由があるという。





  たまに、どうでもいいことはどうでもいい、かもしれない。