教室の中に、漂っていたオトについて、考えさせた。
人のこえ。
最近、半径30メートルに入る人のこえを、
なるべく、「内容」だけに、理解する。
そういう、こえで、隠れていた性別、年齢、音色などの
情報は、なるべく、気にしないようにした。
文字は、ほとんど、人の口で発音ができる。
つまり、人が言うことには、文字と、ちょっとだけの
繋がりがある、かもしれない。
最近は、周りの人を、「情報の質」だけに、
理解してみた。
半径30メートルに入った人が言うこと、たまに、聞くしかない。
たとえ、その人が、別の人に話そうとしても、オトが
円のように、発散しているようです。 まるで、波紋みたい。
たまに、話す人は、ただ、目の前の人の脳に
影響しようとするが、音量がでかすぎるとその人の喉から出した音は、
波紋のように、半径30メートルにいる人に影響するという。
自分の言うことが、他の人の防御反応を起こさないほうが
安全、かもしれない。 たまに、
知らない人の「悪ふざけ」「大声でのわらいごえ」「ネガティブのようなこと」
は、一旦、口から、出ると、波紋のように、半径30メートルにいる人
を影響する。
自分が、知り合いに言おうとする言葉は、他の人にとっては、
自分が知り合いじゃないという。
知り合いじゃない人には、嫌悪感を持つのが常かもしれない。
そこで、他の人にとっての、知らない人の自分が、「ネガティブのようなことば」
を出ると、その「ことば」の発音によって、他の人の脳に
何かの変化が起こすかもしれない。
つまり、昔の記憶が蘇られる、かもしれない。
そのゆえ、もし、知り合いと話そうとする時に、
半径30メートルには、他の知らない人がいたら、
あんまりネガティブのようなことを口にしないほうが
マナーかもしれない。 マナーの基本は、やっぱり、
己の欲せざるところは、人の施すなかれ。
そして、たまには、細かいところに気にしないであります。
知り合いが自分を気づいてない場合によって、もし、
相手が何かをやっている時に強引に挨拶しなくてもいい
かもしれない。
自分が、他の人は知らない人と思ってる上に、
他の人にとって、自分も知らない人という。
人型は、自然に、目の前に見たカオ、
聞いたこえを、分析する、らしい。
もし、知らない人の場合だったら、たまに、
ケンオカンが生じる、かもしれない。
その自動判断システムは、野生の世界には、
大切、かもしれない。
なぜなら、人型だといっても、いろんな人が
いる、らしい。
もし、知らない人に、信頼しようとするならば、
ギャンブルに近い。 そういうリスクは、
最初から、覚悟したほうがいい、かもしれない。
たまに、野良猫だとか、森にいる野生の魚だとか、
野生の蝶だとか、野生のコオロギだとか、鳥だとか。
そういう「脳」がついてる、ひとつかのように見える動いてる分子の集まりは、
人型が、接近する時に、はなれようとする。
簡単にいうと、「ふあん」かもしれない。
「ころされるかもしれない」という。
たとえ「俺」という意識が、相手を捕獲しようと思ってなくても、
俺の形に似ている「人型」には、「俺」が保障しない。
「俺」でさえ、今は、まだ、周りの似てる構造している人型の
考えを完全に予測ができない、からだ。
もし、野生の動物が、初対面の俺を見て、
はなれようとすれば、むしろ、喜べ。
そのほうが、彼らの安全に、いいから。
野生の魚だとか、鳥だとか、雁だとか。
そういう生命体は、俺にとっては、
全部、同じようなカオをしているじゃないかなと思ってる。
多分、俺は、よく近くて、同一のを観察していなかった、かもしれない。
そこで、彼らにとって初対面の俺という形をしているものは、
多分、分別することも、できないだろう。
だとえ、分別できても、歴史上、俺のような形をしている、「人型」は、
ウシなどの生き物と比べれば、あんまりいい名声がしていない、らしい。
しいといえば、ライオン、トラ、サメ以上、きょうあくなせいぶつともいえる、でしょう。
もちろん、全ての「人型」とはいえないが、
「人型」には、確かにハンターというしょくぎょうがいるようです。
もし、百匹のサメのはただ一匹が、たまたま
自分の領域に入った「人型」を噛むならば、
そういうハンターって自称してる人型は、ただ一人で
何百匹も、ころそうとするだろう。
そもそも、もし、自分が、いえに戻って、
ベットの上には突然、トラが座っているならば、
恐らく、驚く。
逆に、自分が、トラが自分の部屋と思ってるところに
いたら、トラが驚いてから、攻撃しても、無理はない。
巨大な野生の生物は、不安定というより、
ただ、人型が、あんまり知らないものに
対しての無知と不安のゆえ、生じたこわさだけ、かもしれない。
人だけじゃなく他の生き物も同じく、脳の構造は、確かに、
何かのルールを従って、作動している、らしい。
要するには、相手の「防御反応」を起こさないように注意すれば、
攻撃される可能性が、低くなるだろう。
人型と人型の付き合いも、同じようなもの、かもしれない。
知り合いは別として、知らない人の騒音は、
「防御反応」を起こしやすいという現象を気づきました。
一旦、「防御反応」を起こされると、「こうげき」か、
「がまん」か、「その反応を起こすものをはなれる」か
という選択が出てくる。
たまに、自分が「内容」を口に出していると思ったら、
知らない人にとっては、ただの、
人型の叫び声、かもしれない。
音量は慎んだほうがいい、かもしれない。
巨大な野生の生物は、不安定というより、
ただ、人型が、あんまり知らないものに
対しての無知と不安のゆえ、生じたこわさだけ、かもしれない。
他の生き物を飼って、平気にころしてたべたり、
自分のおもしろさのため、他の生き物を捕獲して、
動物園というところに軟禁したり、時には、
面白さのため、勝手に、他の生物を
たべないでころしたりこともあるようです。
そうだな。 そう考えれば、
野生の生物が俺を見て、はなれようとするほうが、
彼らにとって、安全。
たとえ、俺は、ただ、周りの分子の流れを干渉しないように
観察しようとしても、他の俺と似てる形を
している人型には、俺が保障できない。
野生動物にとって、そのような
形には、5パーセントの可能性が
攻撃されるならば、いっそう、
全てをきょひして、はなれようとするほうが安全、かもしれない。
もし、俺が、野生動物の脳の設計者ならば、
「安全」という前提として、その脳を設計するならば、
多分、「人型」を見て、はなれるにするシステムを
仕掛ける、かもしれない。
そういう何億年も精錬されたシステムは、
きっとそれなりの原因があるはず。
俺は、その現象を受け入れて、さらに原因
を考えました。
人型にとっても、たまたま、防御反応が起こされて
人を噛むトラには、平気に、一緒に、座ることは
恐らく、すくない、かもしれない。
他の生き物の立場から、
人型を見ると、他の生き物は、
意外と、人型より、単純に考えられる、らしい。
話は、最初、話したいことを随分、はなれていたようです。
今回の主題は、
「人型のオトによっての情報」と「文字によっての情報」
「文字によっての情報」は、自分が知りたい内容に応じて
その内容を集まる特性がある。
「人型のオトによっての情報」ならば、
たまに、その場所にいったら、きくしかない、かもしれない。
「人型」のいうことを、毎日、いうことを
冊にすれば、どんな人が大抵、
普段、どんなことを言うか、というのは、
ちょっと想像することができる、かもしれない。
つまり、どんな人と、接近しすぎると、
その人が出したオトによって、段々、
自分も、どこか、変わっていく、かもしれない。
そこで、どんな人と接近したほうがいいか、
どんな人と接近したら、ちょっとあれかもしれないか、
ということは、慎んだほうがいい、かもしれない。
無論、人が言うことが、考えることじゃないこともある。
それから、人が考えても、言わない場合もある。
そういう、オト的に聞こえないことは、判断の要素に
ならないので、無視する。
気になるのは、やっぱり、実際に、
その人が、言えることだけ、かもしれない。
なぜなら、そういう、相手が、実際に、
出したオトこそ、自分に影響するという。
逆に考えれば、自分が、いくら、考えても、
言わないと、相手にとって、自分が
考えてないとほぼ同じ、かもしれない。
自分が、知ってきた、その自分も、
初対面の人にとっては、突然に、
現れる未知なものに近い。
未知を、知り合いになるまでには、
相手にとって、実際に、相手が見える、聞こえる
自分の「セリフ」と「行動」次第、かもしれない。
たまに、授業中では、
強制に、聞かせられる、らしい。
やってくるオトは、聞くしかない、らしい。
母語としてのオトにとっては、自然に
意味として、転換することがはやい、らしい。
そこで、どんな教師の授業を受けるかどうかは、
慎むことだと思う。
授業では、主観的な話より、客観的に、
分子の流れについての説明が気に入りです。
やっぱり、たまに、主観的な話を聞きすぎると、
たまに、気持ちになる、から。 特に、ちょっとネガティブのようなこと。
そういう主観的なものは、自分で判断すればいい。
内容は、客観的な、分析と、技術の運用に対しては
気に入りかな。
学校に通ったり、食べ物を買ったりなど、する時に、
たまに、いろんな人型が、半径30メートルに入るという。
特に、そういう仲間みたいなものがついてる人型に
気づいたほうがいい。
たまに、そういう人型は、「仲間」という盾(たて)で、
大音量で勝手にしゃべる傾向がある。
独り言で、大音量で喋るのは、おかしくみえるが、
話し手があるだからといっても、周りの人の気持ちを考えせずに、
音量と、内容に慎まない訳ではないと思う。
「ちょっとネガティブのような過去話」「ネガティブのような感想」
「ネガティブのような言葉」「自慢話」など、たまに、
知らない人の「防御反応」を起こす、かもしれない。
人型は、たまに、「流れている情報」「目の前のもの」に
好きか、嫌いか、というレッテルを貼る
さすがに、知らない人によって、「負」という情報が
多すぎると、ちょっとあれかもしれない。
たまに、そのような時は、聞いたオトを
「ア、イ、ウ、エ、オ」というアーリンの
叫び声に考えたほうがいい。
さすがに、地球では、人口の密度が
二位の国かな。
人型に対応する方法は、ちょっと考えたほうがいい、かもしれない。
人型の本質は、そういう密度が高いところに、
試練されている、ようです。
最近は、たまに、「人型」によって、
生じた「負」という感情について、その原因を考える。
やっぱり、人と、近づかないならば、
そのようなことは、たまに、根絶することができる、かもしれない。
そういっても、やっぱり、たまに、食事だとか、
単位を取るため、人は、半径30メートルに出現する。
そのような時には、ちょっと気づいたほうがいい。
特に、知らない人です。
知らない人の口は、何かが出るか、分からないから。
後は、たまに、「負」というの
新聞を読むと、ちょっと、「負」のような
気分が出てくる。
たまに、一掃、新聞を全部読まないにしようかな
と思ってた。
内容は、やっぱり、技術に関わることが
気に入り、かもしれない。
知らない人から、やってくる「情報」は
ちょっと不安定。 オトが出すと、
きくしかない、かもしれない。
それより、「本」に隠れている情報は、
おとなしくみえる、かもしれない。
見なたくないなら、本を閉じればすむ。
見たい時には、いつでも、見れる。
いつまでも、付き合ってくれるという。
人型ならば、たまに、聞きたくないと思っても、
オトが、やってくるという。 そして、
教室じゃない場合には、たまに、その内容の主題を
コントロールすることができない。
知り合いとの会話について、考えました。
やっぱり、普段の会話は、楽しく会話すればいい。
「内容の量」だとか、
あんまり気にしなくてもいい、かもしれない。
要するには「相手」に自分が敵じゃないことを
示せばいい、かもしれない。
話題のリンク、と内容はなるべく、気持ちになることを
話さないほうがいい、かもしれない。
要するには、カエルの共鳴に近い、かもしれない。
話が、自然にリンクすればいいい、かもしれない。
返事を33字以下に控え。
相手が、理解できる言葉でいう。
相手の言うことを肯定する。
(たまに、否定しても、生活には、あんまり役に立たないかもしれない
。細かいところは、気にしなくてもいい、かもしれない。
楽しく会話の前提として)
そして、たまには、最初の挨拶は、
きちんと、するだけで、後で、
無理に話題を増やさなくてもいい、かもしれない。
自分が、やろうとすることをやればいい、かもしれない。
それからは、相手が言いたい時に
ちゃんと、言わせるかな。
内容は、やっぱり、タイミングと場合に合わせた
内容が、自然、かもしれない。
文字の情報に帰ると、
たまに、繰り返し、よむことは、
イメージが強くなる。
オトなばら、好きな人が
言うことは、イメージがつよくなる。
オトの場合は、
音量が高くすることも、
強調する効果がある、らしい。
やっぱり、オトになると、
たまに、話し手によって、
ちょっと主観的な意識が
混ざりこむ、かもしれない。
オトという要素は、文字より、
イメージが強いということは、
否定できないが、場所と相手を慎んだほうがいい。
文字を繰り返す、よむだけでも
似てるような効果がある、かもしれない。
「文字」っていう言い方は、
やっぱり、会話には「ことば」で
言ったほうが、理解しやすい、かもしれない。
会話では、「もじ」ってあんまり、きこえないことを
言ったら、相手がちょっと俄然かもしれない。
それより、意味が近く、会話でよく
使う言葉を選択したほうがいい、かもしれない。
「文字」の場合は「ことば」かな。