たまに、目を閉じれば、世界の中心が感じれる。
世界の中心を感じれば、心が、段々、落ち着けられる、らしい。
その世界の中心は、常に、同じ距離で、
この宇宙にある全ての物質と同じ距離で繋がっているようです。
その中心は、物質の動きのルールに近いみたいなもの。
物質は、そのルールに従って、次から次へ、
動いている、らしい。
もし、そのルールの構造は絶対的なものならば、
この宇宙の過去から、未来は、ちゃんと繋がっているようです。
ドミノ倒しみたいなもの。
物質の流れは、楽しくも悲しくもない、ただ、何かのルールに
従って流れているだけ、かもしれない。
起こったことには、人が受け入れるしかない、らしい。
一度、この宇宙に起こったことは、この宇宙の中心が
そういうことの出現を受け入れたから、起こさせたもの。
そして、一度、起こったことは、何かの仕掛けを入れないと、
条件が満たせば、また起こるという。
人の意識で作った仕掛けを入れていても、人に忘れたら、条件が満たせば、
また起こる。
人の意識で作った仕掛けというものは、世界の中心のルールに比べれば、
いかにも、不完全です。
たまに、俺の存在を、この世界の流れから、抜いて、
もし、俺がいなかったら、その世界はどのように、流れていくかということを考えてます。
もし、予測がちょっと、あれでした。 「俺」という意識で、
どれほど、その、結果を変えるかどうか、この意識で、何か仕掛けを
入れるかどうか、ちょっと、面白い。
いろんなことは、ただの「偶然」かもしれない。
中心というルールの下の「必然」の下の「偶然」みたいな感じ。
つまり、そのルールに従って、起こったことは、悲しくも楽しくもない
「偶然」、かもしれない。
ただ、ルールに従って、「必然」に起こることだけ、かもしれない。
全ての物質は、その中心というものに従って、
動いているだけ。 「俺」という意識も、その一部にすぎない。
「人」も、「犬」も「牛」も、「雷」も、いろんな現象は、
物質が、それに従って、生じた一つの現象にすぎない。
会話の音も、「母音」と「子音」に合わせて、
声の差別を作るだけ。
文字は、顔みたいな線を描いて、何かの発音と
繋がってるだけ。
そういう考えれば、単なる「文字」で
人と人の考えを理解しあうのがちょっと不完全。
たまに、自分が、何かを感じていたら、言わなかったら、
相手が分からない。
言っても、相手は、昔、自分の記憶の中に
残った経験で、想像するしかない。
もし、その経験は相手が言おうとする考えるものと
ちょっと違ったら、すれ違いが出てくるという。