もし、この世界は、いろんな元素から、構築されているなら、


文章にとっては、文章を構築する元素は、多分、「言葉」の意味というもの、かもしれない。


電子辞書に探せる言葉を組み合わせて、文章を構築する。


  すると、文章は、擬態の宇宙となったような気がする。






  いろんな元素が、この世に存在していて、何かのルールに従って、


空間的な位置が変わっているようです。  そういう、空間的な位置の


変わりがもっとデリケートまで、見ていたら、恐らく「時間」という


感じも、空間的な変化が生じた錯覚、かもしれない。





  


  現存している文献によると、今まで、発見されている元素は


100種類ぐらいあるようです。  そういう元素は何かのルールに従って


流れているので、今、この世界となるようです。





  日本語で書いた文章も、「大辞泉」だとか「大辞林」だとか「広辞苑」だとか、


そういう辞書にはまっている言葉で、構築しているようです。


つまり、文章というものは、ただ、現存しているものを取って、


新しく、組み合わせるものにすぎない、という。




   そういう、組み合わせるものは、一体、どれほど、


人の考え、行動を影響するには、ちょっと興味がある。





   相応しいタイミングで、聞いた言葉、見た本、


見た文章は、人の「未来」の行動にどれほど影響するかどうか、


ちょっと考えさせた。




  そして、誰かが、作った文章は、どれほど、その世界に


影響することも、ちょっと考えさせる。




  後は、誰かが、何かのタイミングで、


周りに人に言ったことは、どれほど、周りの人の気持ちと考えを


変えるということも、ちょっと考えさせる。



  一体、「言葉」というものは、どれほど、


人の行動、考え、気持ち、に影響するには、ちょっと考えさせる。。




  



  でも、やっぱり、人と人の理解には、「言葉」だけじゃなく、


他の「言葉」じゃないものも、他の「もの」の存在の理解にとっては、


大きく影響するもの、らしい。


  


  感情に左右されずに、単純的に、分子の流れを記録していれば、


そのような記録は、どれほど、この世界に影響するかどうかということは、


ちょっと考えさせる。






  「好き」「嫌い」「喜び」「悲しみ」「傲慢」「貪欲」「食欲」


「軽蔑」「愛情」「恨み」「怒り」「差別」「同情」という、感情に、左右させずに


「自分」という立場をしばらく、忘れて、目の前に発生してた分子の流れに


ついて、記録していれば、そういう、記録は、もっと真実に近い、かもしれない。


つまり、「文字」で、もう一度、目の前のことを、構築することです。


この宇宙のモデルを「文字」のようなもので、もう一度、記録するということです。


そういうモデルは、「今」が発生していなくても、何度も、


他の人、未来の自分に閲覧させるという。 


たとえ、記録者が、観察する時のことを忘れていても、


そういう「文字」のようなもので構築したモデルは、


何とか、役に立てるかもしれない。




もし、いろんな「真実」を組合せば、


もっとましなようなものが作れるようになる、かもしれない。





たとえ、この世界の分子の振動のルールは、100種類に構築されているなら、


記録者は、50種類ぐらい、記録していた。


そういう曖昧不明、確認できない仮設より、


ここで、強調したいのは、確実に発生してた分子の振動の記録です。


もちろん、いろんな人が同じ現象を見て、その述べる方法がちょっと違うかもしれないが、


彼らが、述べようとしてるものは、その目で見た現象ならば、


きっと、二つの文章を見た後に、何か似たような気がするはず。


それに、いろんな角度から、同じ現象を見るのも、真実に理解にいい、と思う。




理解者Aは、その記録された50種類の20種類を見た。


理解者Bは、その記録された50種類の30種類を見た。


そういうルールを使って、ものを作るならば、もちろん理解者Bのほうが


もっと精密的なものが作れるかもしれない。


もし、「生命」も工芸品の一種類だとしたら、「生命」を作る前に、


必要されるルールは、多分、もっと多い、かもしれない。


つまり、観察して、なるべく、ルールを集まってきたら、


いつかは、そういうデリケートな工芸品も作れるようになる、かもしれない。







この世界に、まだ記録者に発見されてないルールは


存在していないとは、限らない。


そして、自分がまだ、読んでない記録が存在してないとも限らない。


もし、そういう記録が、検索されやすくならば、


どのようなことが発見されてるか、どのようなことがまだ発見されてないのか、


どのような観察は、まだしてないのか、そういうことは、


全部、リンクして、いたら、もっと便利、かもしれない。



そういう記録は、ああいう記録です。


確実に、発生していた記録という、分子の流れの


記録。  もっとも原始のデータ。


もっと、真実に近い情報。






もし、人体を、しばらく、宇宙としてみていれば、


体の分子の流れが、何かのルールに従って、流れているようです。


たとえ、医者という人が、目の前の人、生まれてきて、一度も見てないのに、


その「人」という目の前の「もの」の流れのルールを予測して、


何かをすることができるならば、多分、その医者は、


この前に、似たような「人」という「もの」を研究してきた、かもしれない。


つまり、「人」全て、同じとは言えない、似てるようです。


その類似性を運用して、いろんな人の「病」を対応することができるようになる、かもしれない。


たとえ、目の前の人が、一度も見たことない、だとしても。


つまり、「医者」は、人の類似性があるこそ、成り立てるというもの、かもしれない。





バイクの技師だとすれば、


バイクの技師は、最初が、二台か三台ぐらいのバイクを


分解して、いろんなパーツを理解して、いれば、


その後、百台ぐらい、故障したバイクが来たら、


もう一度、分解して、最初の故障のないバイクの構造と


照準して、ちょっと違ってる分が、恐らく、故障の原因、かもしれない。


あのパーツを変えれれば、バイクは正常に戻るかもしれないという。


その面について、バイクの技師は、医者とちょっと似てます。


子供の時、隣人の一人が、バイク技師。


その技師があのようなこと言ってくれた。


「一度分解して、故障したものを取り替える」、それが修理の原則というもの。


技師の成立は、バイクの似てるところがあるから。


だからこそ、技師は、最初、雛形というバイクの原理を知っていれば、


その後、ちょっと変わったバイクを見ても、何となく、修理ができるようになる、かもしれない。


最初の、観察は、大切という。






元素がこの宇宙を構築していて、さらに、元素は、何かのルールを中心として、


動いてる。








  そして、もし、人体を宇宙とすれば、人体に対する元素は、なんだろう。


いろんな視点あるようです。  いろんな角度から、見れば、


違っている。  「心臓」「肝臓」「血液」「骨」「腎臓」「肺臓」


「脳」「眼」「耳」「腸」「気管」などで、構築されているようです。


それか「骨」だといっても、昔の人が、体にある骨について、


いろんな名を付けられているという。 位置によって、名もちょっと違っているようです。


人の骨は約206個あるようです。


たとえ、全部、覚えても、今の俺にとっては、まだ、要らないようです。


覚えるために、覚えるなら、それ、ちょっと必要じゃないと思う。


それからは、脳も、位置によって、特定な人に


いろんな部分を名づけられているようです。


「名前」は別として、そのようなものは、実在している。


元素と同じように。  


「名前」の役目は、そういう実在しているものを


記録する時に、もう一度、「文字」で、そういう


起こった分子の流れをモデルにすること、という。


そういう、いろんな体の部分を指してる記号が、


何かのルールに従って、流れている。


つまり、医学の本を読む前には、そういう


部分の名前が指したところをリンクしたほうがいい。





元素の名前も、人体の各器官の名前も、バイクのパーツの名前も、


多分、使おうとする時に、覚えればいいと思う。


もし、使わないのに、強引に時間をかけて、覚えても、


ちょっと無意味、かもしれない。


まるで、本を買って、読まないままにするみたいな。


まるで、本を読んでも、使わないようにするみたいな。


あれだったら、ちょっと金が、無駄にしたようになったみたいな気がする。


同じく、あんまり使ってないものを、時間をかけて、覚えるのも


ちょっと、そのようなものと同じような気がする。




バイクの修理といえば、


もし、バイクが宇宙だとしたら、いろんなパーツがその宇宙の元素となる。


そういうパーツが何かのルールに従って、流れている。


修理の本を理解する前に、多分、まずは、


本が書いた名詞が、バイクのどの部分を指すということをリンクしたほうがいい。




同じく、外国語の本を理解する前には、


まずは、言葉が、指しているものを、意味とリンクしたほうがいい、かもしれない。


つまり、文章は宇宙、それぞれの単語は元素というもの。





こうやって、何か、いろんなことは、ちょっと「円」みたいな感じがするようです。


その「円」の中心は「見えるもの」じゃなくて、


元素を動かせるルール、というもの、らしい。


そして、この宇宙の中心は、まさに、あれです。


そう考えてみれば、自分は、宇宙の中心に近い、かもしれない。


近いというより、この宇宙に存在してるものが


全て、その中心との距離は同じようです。


その中心は、実在していないものようです。


何か、物質を、規律あるように動かせるルール。


そして、円の中心の周りに書いた線が、その宇宙の


全て、見えて触れる物質という。


「俺」「人類」「生命」「水の流れ」「雷」「潮汐」


もその巨大の流れの一部にすぎない。


その円の中心は、今の俺を構築した分子を動かせた。


人は、その中心の規律をしようとしていた。


恐らく、その「好奇心」も既に


円の中心に仕掛けられていた。


過去と未来は、その円の中心のルールに囲まれている。


つまり、分子の振動は、その円の中心のルールに囲まれているようです。


自由意識など、幻想にすぎない。





この世界は円、円はこの世界。

そう考えていれば、この宇宙に存在している全ての物質は、


その中心と同じような距離、している。


物質と物質は、こんな関係と考えてみれば、全ての物質の


距離がちかく感じる





「俺はこの世界の中心ではない。」


それは、恐らく、正しいものです。


もちろん、誰でも、何物でも、この世界の中心ではない。


この世界の中心は、その円の中心です。


宇宙の中心は、物質のようなものではなく、


エネルギーの流れのルールに近い。



そのように考えてみれば、


自分が、世界の中心かのように、何かを言う人が


むしろ、おかしくみえます。





























  「ネコ」と「犬」は、人が理解できる言葉が言えないが、


彼らは、確実に、目の前に存在していたものである。





  それからは、言葉だとしても、会話になると、


相手の声の大きさ、リズムの速さも関わっているようです。


人が興奮する時に、普通、声の大きさとリズムは高まっているようです。


つまり、冷静ではない、という状態、らしい。


もちろん、心は、冷静ですが、興奮するかのように表で演じている人もいるかもしれない。




  それからは、人の表情です。


後は、行動です。




  何も、言わないで、助けてくる人は、たまにいるようです。


あのような時は、たまに、感心する。










   話題に戻ると、今回の主題は、


「言葉と人の行動の関係」という。




   はっきりの例としては、会社が動いてる前に、


書いた「計画書」みたいなものです。


  そして、「計画書」の書くとおりに、行動することのが、


言葉が、人の行動の関係について、深く見えるようになるようです。


  たまに、「計画書」を書くのが「監督」、そして、


スタッフは監督の「計画書」の書くとおりに、何かをやって、


何か作って、人々に買わせる。  そして、チーム、全体に


その金を持って、食べ物を買って、食べて、行き続けて、


また一部の金を持って、次の作品が必要の素材を


集めて、作るという現象が、この社会に、


起こしているようです。








  後は、「記録者」という人がいる、らしい。


そういう人が、推測じゃなくて、目の前に、発生している現象を


記録して、積もっているという。


  ジャーナリスト、科学の観察日誌、普通の人の日記など。


そういう確実に起こった分子の記録も、ちょっと考えさせる。


その中には、何かルールが隠れているかもしれない。


  そのルールの規律を知っていれば、


限度以内で、未来を予測することができる、かもしれない。





  もし、「記録者」がいれば、「理解者」もいる、らしい。


「理解者」は、そういう記録を、読んで、その中の規律を


考えるという。  そして、どのようなことが


実際に生活と未来の行動に影響することを、取り出すというもの、かもしれない。


同じ人だとしても、「記録者」と「理解者」の身分が


両立することができるようです。





  「記録者」にとっては、大切なのは、記録だけじゃなく、


「観察」することです。  「観察」なしに、真実によって


記録することができないという。  つまり、真実に近い記事を


書くため、観察力が必要です。




  後は、理解者にとっては、ただの「記録者」が


書いた文章を理解するだけじゃなくて、たまには、


そういう記録によって、もう一度、自分の目で


試す必要があると思う。


そのほうは、イメージが強い。


そして、先任の記録者が、注意していないところを


記録する。


記録をもっと、真実に近づく、という。