呼吸のスピードを遅くすると、違う感じがする。


酸素が肺に入って、血液に流れていて、そういうことを瞑想すると、


ちょっとだけ落ち着ける気がする。



  図書館から出て、コンビニ外の流れてる水に気づいてた。


  今日は水の流れについて、考えてた。


23三年間、見てきた。 水の流れの感じは、ずっとそのままだった。 


水は何かに導かれていて、流れていた。  水の流れ、その動向は、


水、自身の意識で決めることができない、らしい。


環境が水を動向を導いた。  つまり、その水の動向は、


水、自分自身の意識だけじゃなくて、周りの意識も合わせている。




  過去と未来は、何かの力に導かれていて、決まっている、かもしれない。


つまり、運命ということかもしれない。  全ての現象、意識、


起こったこと、存在したもの、きっと、それなりの意味があるはず。


全て、分子の振動は必ず、それなりの意味があるはず。


たった一つの分子は、よくもわるくもない。ただ、一つ、振動してる、球体みたいなものだけ、かもしれない。


言葉で分子の価値を表せるものはない。そう考えれば、宇宙の全てが、全部、同価値なものとなる。


つまり、宇宙中の全ての分子の振動は、一つの意識となる。


その意識こそ、真の宇宙の意識。  自分の意識もその巨大の流れの一部だけです。


真実は、もう周りの流れに隠れている。 何かを示している。


過去と未来は、何か、決まってるルールを従っていて、流れている。


自由意識など、幻想に過ぎない。





宇宙の全ての分子は、何かの力に従って、動いている。


今が、動いている。 そして、俺はただその巨大な鼓動の一部だけです。


人類、いや、生命も、多分、その巨大の鼓動の一部だけに過ぎない。


何も意味もない、分子の鼓動だけ、かもしれない。


何かの力に導かれて、鼓動しているだけです。


歴史によると、十九世紀初、世界人口は、10億人ぐらい。


工業革命の後、200年間経った今、二十一世紀初、


世界人口は、60億人に越えていた。


つまり、今は、200年前と比べて、


50億個、人類、という意識が増えてた。


増えるとはいえ、実際に考えてみれば、


ただ何かの力に導かれて、構築されただけです。


意識が現れる前に、宇宙はもう、全ての素材と仕掛けを用意してた。


用意してたから、俺が今ここにいる。


その本当の源を遡れば、23年前じゃなくて、おそらく、何億年前には、


もう決まっている、かもしれない。 もしくは、ただの偶然、かもしれない。


分子は、何かの力に導かれていて、ずっと流れてるだけ、かもしれない。


エネルギーは、何か、力を出すためには、流れる必要が出てきた。


もし、その理由がなくなったら、分子の振動は停止するかもしれない。


いつか、まだ、何か別の振動に蘇られるまでに、停止する、かもしれない。


理解しやすい説明ならば、


「車は、必要な人がいるから、大量に作られている」


「米は、食べられているから、繁殖されている。」


「何か、忘れられたものは、思い出さなかったら、ずっとそのまま、


あそこに、止まっている、かもしれない。」って感じかな。


全ての現象は、何かの理由に繋がっている、らしい。


科学とは、ただ、その何億年も決まっているルールの一部を


発見して、運用するだけ、かもしれない。


よくも、わるくもない。 発見する人、発見された現象の規則、


その両方は、ただ、宇宙の意識の一部だけにすぎない。


すべて、A時間点から、B時間点に導くための仕掛けだけです。


エネルギーはまだ流れているから、物質は、そのエネルギーを


従って、流れているこそ、A時間点とB時間点、その分子の


分布は、ちょっと間違ってる、かもしれない。


その分子の分布の差があって、時間という錯覚がそれで出てくる、かもしれない。


分子はただ何気なく、力に導かれて、流れていっただけ、かもしれない。


心臓の音を聞くと、何とか、分かる、かもしれない。




「時間の錯覚」というもの、「記憶の仕掛け」はかなり大きく関わっている。


「記憶」というものは、どんな方法で動いているのか。


それは、面白そう。


もし、一人の記憶は100年間に囲まれているなら、


その100年間ぐらいの意識は、物質の分布の差を察して、


そして、「時間」という錯覚を出てくる、かもしれない。


文字にも、ちょっと面白そう。


文字は、死んだ人間あるいは、周りにいない人間の意識を、


ある形で、示した。 完全、その人の意識とはいえないが、


一応、何かの意識を示している。


もっと、考えてみれば、文章は、作り出す瞬間には、


もう、一つに分離されている、意識を示している。


その意識は、あそこに定着されているが、作者は、経験によると、


また、意識、が変わっていく。   だから、


その本は、作者と分けて、別の意識になっている。


どっちの意識は正しいか、どうか、役に立つかどうか、


そういうのは、読者、自分自身で判断するしかない。


文字は、線の形で、人の口の動を制御した、らしい。




どこかの知らない人の主観的な、文章より、むしろ、自分で、世界の動きを観察して、


記録したほうが、気に入りです。  そのほうが、もっと真実に近づいてるから。


他の人が記録してたものには、たまに、その真実を試すために、観察とか、実際に


やってみる必要がある。  そして、文字は、単なる、決まっている声を


作り出すだけなく(朗読)、人の動きも影響されている、らしい。


たとえば、水泳の泳ぎ方だとか、バイクの乗り方だとか、


でも、そういう、本当の感じは、自分でやって体験するしかない。


文字が表示できるものはやはり、限界がある。


実際の感覚は景色ならば、文字は、ただ、それは、導く地図だけのものです。


実際に、体験しないと、景色のすばらしさは、単なる、言葉で表すことができない。


地図だけ持っても、実際に、あそこに行かないと、いい写真が撮れないって感じ。


文字は最終目的じゃないかもしれない、文字は、ただ、あそこを辿り着く手段だけ、


かもしれない。

文字で表現できないものは、たくさんある。


人は自分で踏み出して、いろんなことを体験するしかない。



この文章の結論は、ない、かもしれない。


まさに、この宇宙の意味はない、かもしれない。


ただ、何かの力に導かれて、囲まれている分子の監獄だけ、かもしれない。


全てのものは、ただ何かの力に従って


単純に、動いているだけ、かもしれない。




そういう情報は、たとえ、分かったら、どうする。


そうですね。


どうしようもならないんだなあ、かもしれない。




もし、人の寿命は五十年(18250日間)に囲まれているなら、


どんな時が、一番、いい時だろうなあ。


俺はどんな時のために、生まれてきたかな。


俺は何かを感じるために、生まれてきたかな。


俺の存在する意味は何なのか。


そういう記憶は、せめて、一度だけ、脳に刻んでみたい。


今年、俺は、あれを体験した、かもしれない。


また、一人になってしまった俺は、何をすればいいのか。


あの時は、よかった。


後九日間かな、俺はもうすぐ、生きてきて8760日間に突入する。