織田 信長(おだ のぶなが)は、日本戦国時代 から安土桃山時代 にかけて、世に多大な影響を残した武将戦国大名政治家 である。

当時の常識や権力に囚われず、新しい考え方や文化を積極的に取り入れる見識の広さ、合理性と冷徹さを兼ね備えた知性によって、統一者のいなかった政治的混沌を収集に向かわせた人物である。その事業は大方向を示したところで重臣の一人・明智光秀 の裏切りに遭い、自刃に追い込まれたことによって頓挫した。しかし、政権の実質的後継者となった羽柴秀吉 が、信長の築いた足場をもとに天下統一 を進め、ついには成し遂げることとなったことから、秀吉が継ぎ、徳川家康 が完成させる形となった日本 近世 の形成事業の創始と言うべき位置づけにあった政治家である。









本能寺の変

詳細は「本能寺の変 」を参照

本能寺焼討之図

天正10年(1582年)夏、信長は四国長宗我部元親 攻略に、三男・神戸信孝 、重臣・丹羽長秀蜂屋頼隆津田信澄 の軍団を派遣する準備を進めていた。

同年3月11日、北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い )。上杉家は、北の新発田重家 の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

同年5月15日、駿河国 加増の礼と武田征伐 の戦勝祝いのため、徳川家康安土城 を訪れた。そこで信長は明智光秀 に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。

家康接待が続くなか信長は、備中高松城 攻めを行なっている羽柴秀吉 の使者より援軍の依頼を受けた。「毛利氏 が大軍を率い、高松城への救援に向かう動きがある」とのことであった。

信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。のち『明智軍記 』などによって江戸時代 以降流布される俗説では、このとき、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓森成利 (森蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。

信長は5月29日、中国 遠征の出兵準備のために上洛し、その後は本能寺 (在京)に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日 に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたといわれる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら を手に奮闘したとされている。しかし圧倒的多数の明智軍を前には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したと伝えられている。享年 49(満48歳没)。(本能寺の変

光秀の娘婿・明智秀満 が信長の遺体を探したが見つからなかったため、密かに脱出し別の場所で自害した説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人 の家来・弥助 がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。

平成 19年(2007年 )に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されおり、現在も調査が続いている。




後世の評価

江戸時代 においては小瀬甫庵 が記した信長記 によって知られたが、絵本太功記 等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、庶民の間での評価はそれほど高くなかった。明治 以降は信長が行った御料所回復等の事蹟が勤皇家としての評価につながり、明治2年(1869年 )に明治政府は織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年 )、天童藩 (現在の山形県 天童市 )知事の織田信敏 が東京の自邸内と、藩内にある舞鶴山 に織田信長を祀る社を建立した。この時信長を祀る社には神祇官 から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治13年(1880年 )には東京の建勲神社 は、京都船岡山 の山頂に移っている。大正 6年(1917年 )には正一位を追贈された。

戦後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。またルイス・フロイス が記した日本史 の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王 と記した」[1] という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、その設定を利用したフィクション作品も数多く生まれている。





性格

  • 「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(時鳥はホトトギス )という歌がその性格を表していると言われているが、これは本人が作ったものではなく平戸藩 主・松浦清 (松浦静山)の随筆 『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である(q:時鳥#川柳 )。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ...」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍はあまりに気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
  • 信長公記 』によれば、浅井久政長政 父子と朝倉義景 の三人の頭蓋骨金箔 を貼り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。これは後世、髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話になっているが、小説家の潤色であり、実際には使用していない。髑髏 を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものである。
  • ルイス・フロイス は信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。声は甲高く、常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはほとんど無い。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。自分をへりくだることはほとんど無く、自分以外の大名 のほとんどを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像 を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗 ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠回しな言い方を嫌う」と記した。
  • 世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたことが、京都の公家 などが記した日記などから窺い知ることができる。


交友関係

  • 身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。お盆では安土城の至る所に明かりをつけ城下町の住人の目を楽しませるといった行動から祭り好きでもあったようである。
  • 上京以来朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから公家とも親交が深かった。特に近衛前久 とは最初は敵対していたにも拘らず、趣味の一致などと相まって特に仲がよかったようである。
  • 当時の他の戦国武将同様、男色 も嗜み、小姓前田利家堀秀政 、後には森蘭丸の名で知られる森成利 (異説あり)ら多くの稚児と関係を持ったと伝わる。また、側室は権力の強大さに比べ少ないが数多くの子をなしている。

南蛮への関心

  • 南蛮品を好み、正親町天皇 を招き開催した『京都御馬揃え 』にビロード のマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたといわれている。アレッサンドロ・ヴァリニャーノ の使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、彌介 (やすけ)と名付け側近にした。
  • イエズス会 の献上した地球儀時計地図 などをよく理解したといわれる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でないころから火縄銃 を用いていた。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイス には日常生活は普通に見えたようである。ローマ教皇 グレゴリウス13世 に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年 であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。

文化への関心

  • 囲碁名人 という言葉は信長発祥といわれている)・幸若舞 を好み、猿楽 )を嫌った。幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」という部分は、信長の人生観と合致していたのか、特にお気に入りで、よく舞ったといわれている。
  • 大の相撲 好きで、安土城などで大規模な上覧相撲をたびたび開催した。また、相撲大会は身分問わず、信長の側近と庶民が入り混じって相撲をとっていたといわれる。そのほか水術、鷹狩馬術弓術 などの身体鍛錬、武術鍛錬に繋がるものを趣味としていた。
  • 三好義継が敗死したとき、坪内という名のある三好家の料理人が織田家の捕虜となった。このとき、信長は坪内に対して「料理がうまければ罪を許して料理人として雇う」と約束した。そして坪内が作った料理を信長は食したが、このとき「料理が水っぽい」として坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう1度だけ機会が欲しいと頼んだ。そして2度目に出された料理に対して、信長は「大変うまい」と認め、料理人として取り立てたという。後で坪内は、「最初から2度目の料理を出していたら良かったのではないか」と訊ねられると、「最初は京風の上品な料理、次は味の濃い田舎料理を作っただけです。しょせん信長公も田舎者ということですよ」と語った[21] 後日、その話を耳にした信長は、「自分の料理人として仕える以上、自分の好みにあった料理を作るようにまず努めるのが家来としての本分である。それを怠ったのは単に無能だったからだ」と答えたという[要出典 ]

政策

天下布武

訓読すれば「(あめ)の(し)く」となる。「武力を持って天下を取る」という風に解釈されることが多いが、近年の研究では「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に取ることが多い。上述のように信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印を用いている。

宗教政策

  • 宗門は法華宗 を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する政策や、安土城の石垣に地蔵仏や墓石を用いたこと、ルイス・フロイス の記載などから唯物論 的思考法を身に付け、当時の僧侶についてはその横暴を非難し、キリスト教の宣教師を誉め、神仏の存在や霊魂 の不滅を信じることはなかったとされる。ただし、織田信長が仏教勢力に対して厳しい姿勢で臨んだとする史料のほとんどは、仏教勢力と対立関係にあったイエズス会のものであることに注意する必要がある。さらに、信長が一向一揆を滅ぼそうとしたとする史観は、江戸時代に本願寺教団によって流布されたものであるとの研究もある。
  • また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教道教儒教 を題材とした絵画 を使用したり、浄土真宗 や延暦寺の宗教活動自体は禁止しなかった。
  • 安土城内に信長に代わる『梵山』と称する大石を安置して御神体 とし、家臣や領民に礼拝を強要したと伝えられる(ルイス・フロイス『日本史 』)。この自己神格化については、朝廷との関係や大陸出兵構想などの視点から肯定的な学説が数ある一方、否定的な学説も多い。また、フロイスがこのことを記述したのは信長の死後で、フロイスの記述以外の一級史料に見ることができないため、フロイスの記述そのものの信憑性について疑問視する研究もある。

朝廷政策

信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)で学界は二分されている。朝廷の代表者である正親町天皇 と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明 が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人立花京子 らが実証研究に基づく本能寺の変 「朝廷黒幕説」を提示するなど、本能寺の変の真相研究などと絡んで論争が活発になっている[22]

ただし、残存史料 が不完全なこともあり、信長と朝廷の出来事をめぐっては全く違う解釈が可能である。

谷口克広 は、いずれかの説をとる研究家を以下のように分類している。[23]

以下、信長と朝廷との関係についての論点と双方の説について述べる。[24]

商業政策

商工業者に楽市・楽座 の朱印状を与え、不必要な関所 を撤廃して経済と流通を活性化させるとともに、検地 を徹底して領国支配を確立し、家臣を城下に居住させて常備軍を編成した。ただ、全ての座を無くさせたわけではない(そんな事をすれば当時の流通は麻痺してしまう)。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座が力を持っている都市では座を利用した。

人事政策

  • 能力主義を重視して、足軽 出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉 )、浪人になっていた明智光秀 、忍者出身とされている滝川一益 などを登用する一方で、譜代の重臣である佐久間信盛 林秀貞 らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する柴田勝家 などと比すと物足りないものがあった。重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間や林に対し、懲罰的粛清を断行したと見る向きもある。しかし、佐久間信盛 には19ヶ条の折檻状をだし、それを要約するとただ有無を言わさず追放したのでは無く、隠棲するか命を懸けて手柄を立てるかを選ばせている。この折檻状や前田利家 の復帰から、失敗を上回る功績を立てれば許すという方針を持っていたと言える。
  • 佐久間信盛や林秀貞ら譜代家臣および安藤守就 の粛正については、家臣の所領を整理し織田家直轄領を増やす目的もあったと見る事もできる。
  • 当時流行した茶の湯 を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった『名器と称される茶道具』を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子 という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領 の称号と上野一国の加増でがっかりしたという逸話がある。
  • 宣教師と共にやってきた外国兵を受け入れ、国籍を問わず、自らの兵として登用していた。
  • 人事においては厳しい一面があったとされるが、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねね に対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、ねねに対しては励ましの手紙を送るなど、人間味を見せているところがある。また、彼が追放した佐久間信盛・信栄に関しては信盛が亡くなると、信栄の帰参を許したことからも反省したと判断したのかは不明だがその動向を気にしてはいたようである。
  • 信長の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、堀秀政、森成利(蘭丸)といった、命令を遂行するために必要な秘書官だけが登用されていた(竹中半兵衛 黒田如水 は信長の家臣だったが、実際には秀吉の配下であった。如水は信長の実力を認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないと考え、あえて秀吉を選んだという説が有力である)。ここまで成功した人物にそういったものがいないケースはそう多くない。信長自身が他人の意見に従う事を好まず、このことが、周囲の人物が信長の意図を理解できずについていけなくなっていった要因のひとつともいわれている。ただ、乱世の時代に急速な改革を遂行するためには止むを得なかったという見方もある。ちなみに、日本においては軍師自体存在していない(中国の制度である)ので、竹中重治が軍師であったいうのは、後世の創作である。
  • 戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事であったにも関わらず、信長を裏切った者の大半は信長が上洛してからの家臣であり、尾張・美濃時代からの家臣の中で、信長に背く者はほとんど見受けられない。
  • 天正8年(1580年)、信長は林秀貞を昔の謀反の罪で追放したが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。そのうえ、信長は存命中、勝家に対し越前8郡75万石という織田家臣団随一の領国と、織田家筆頭家老の地位を与えていた。また、松永久秀に対してもその実力を評価し、二度も降伏を許している。このように、有能であれば、その罪を許し重用もしていた。

戦略

  • 戦略としては、入念な準備を行い相手の力をそぎ、その上で相手よりも多くの兵によって戦うといったどちらかと言うと慎重な手段を用いることが多く、桶狭間の戦い に代表されるような敵の意表をつき寡兵で大軍を破ろうとする策はあまり取らなかった。特に信長がその存在を警戒した武田信玄・上杉謙信の両名には自分から積極的には兵を出さず慎重に対応した。信玄・謙信も信長へは単独では挑まず、周囲と協力して当たった。しかし、後述のように時には寡兵による戦闘を行っており、時機を考慮し遅れた援軍を待たずに交戦するなど臨機応変に対応している。
  • よく根切り(皆殺し)を命じたように思われているが、実際に相手の降伏も許さず殲滅したのは寺社勢力との戦ぐらいで武田征伐・第二次天正伊賀の乱等の戦いでも一部の相手の降伏を受け入れている。寺社勢力との戦いでも、先に武力を行使したことは無く和睦を申し出たり仏法に則っての中立を促すなどをしていたが、相手がそれを一蹴したり破るなどをしていた。長島・越前の戦い等では相手を殲滅したが、その大元である顕如率いる本願寺との和睦も何度か受け入れている。また、高天神城の戦いでの家康方への手紙を見ると相手への威圧や敵の調略を容易にする行為として駆使していたことが窺える。
  • 個人的な武勇にも優れていたといわれる。桶狭間の戦いをはじめ、一乗谷城の戦い 、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立って、奮戦しているほどである。大名自身が最前線に立って戦うことは異例であった。
  • 機動力に優れており、例えば六条合戦では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し、摂津に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。

内政

  • 敵大名や一揆衆や自らの配下には苛烈であった信長だが、地味な内政や民心掌握に敏腕を発揮しており、信長が支配下に置いた尾張・美濃などの多くは信長によって終生、善政が敷かれていた。桶狭間の戦いにおいても信長が勝利することができたのは、領民の支持があったからだとも言われている[誰? ]。相次ぐ戦乱で荒廃した京都の町人たちも、厳正な信長の統治に対しては歓迎したという。織田軍の足軽が道を行き交う女性に絡んでいるのを見かけた信長が、京都の治安を乱す行為をしたとして自身で手討ちにしたという挿話もある。また、本能寺の変の後に、明智光秀についた国人 層が少なかったことも、これを裏付けている。
  • 楽市楽座は信長が最初に行なった施策と言われることが多いが[誰? ]、実際には近江 南部の戦国大名 であった六角定頼 (信長に滅ぼされた六角義賢 の父)が最初に行なった施策である。しかし信長も、楽市楽座を大規模な施策とし、さらに琵琶湖などを中心とした流通による商業発展を目指すなど、やはり先見性のある内政を行なっていたといえる(流通による商業政策が重視されはじめたのは江戸時代後期であり、それまでは年貢が重視されていた)。
  • 公共事業にも手を伸ばしており、道を整備し道標代わりに一里毎に木を植える(一里塚)などといった街道整備を手がけている。これにより、自軍の行軍速度が速くなり、関所の撤廃と合わさって様々な地から人の往来がしやすくなることで商業が活性化するといった効果をあげた(他国では、敵の行軍速度も速くなるという短所もあったのでなされなかった)。
  • 信長が公認した枡のそれぞれに焼印や花押を押すことによる単位の統合、質の悪い貨幣ではなく良い貨幣を使うよう呼びかける選銭令を発令したりと、社会・経済の基盤を安定させる政策を行った。


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