アニョハサヨ!レバ刺し食べ過ぎてトイレに行きがちな市川貴章です




韓国の障がい者自立支援施設やらそーいった感じのところに研修にいっておりまして

色々と学ばせてもらってるんですが、国が違うだけで価値観的なものは一緒だなと思う反面で


ちばる食堂の価値を海外に行けば行くほど強く感じます。


世界どこにでも高齢者や認知症と診断された方や介護が必要な方はいて、もちろん障がいを持つ方もいます。生まれ持っての障がいや事故や病気を発症しての障がい諸々。


その方々がどーやって社会と繋がりを持つか、社会にどーはいっていくか、生きがいややりがいを持ち自分らしくどー生きていくか。それは万国共通の認識だが、世界を見て思うのは、高齢者や高齢になっての認知症に関する意識がとても低い。日本が世界でトップクラスの長寿国であること、僕が高齢者介護に携わってることで意識がそっちに向き過ぎているのかもしれないけど


日本で認知症の方を補助や制度を使わずに雇用しているということを伝えてもピンときていないのが印象で、高齢者は終末的ビジネスの対象になっているように思う。


可能性や必要性、いきがいみたいなのをまだ感じられずにいるのが世界。


僕が伝いたいことはなんなんだろうか、僕らがやっていることはなんなんだろうか。

日本にある障がい者の就労支援であるA型やB型を利用するなら一般雇用すればいいじゃん!って思ってたけど、そこにこだわる必要があるのか。制度というか、支援が必要な人はいる。でも、支援が必要な人ばかりではない。


そこの線引きというかが難しいなぁ

僕が今やっていることにはグラデーションがなくて、できるとできなくなったの2択しかない、もっと曖昧で余白があってもいいように思う


必ずしも今やってることが正解ではないし

今やってることがベストとして良し悪さをジャッジするのは正解ではない。つまりは、正解のない問い続ける世界に僕らは身を投じたし、今回の視察で相棒と話してたけど、世界に来ても深掘りして議論できる相手が、僕と僕の相棒しかいない。


何かまだピンと来ていない世界に違和感を感じると共に、これが違和感だと感じさせれていない僕らの未熟さも痛感した。

さらに、ちばる食堂がやってる事実は自信をもって発信すべき事実であると思った。


ビジネスありきの片隅で、リアルを追求し続けて

あらゆる人の選択肢を増やしていく。だから、もしかしたら否定し続けた就労支援を採用するかもしれないし、最低賃金のあり方や労働基準の在り方を正すことをしていくのかもしれない。

それは、すべて今の制度や法律では生きにくい人が生きやすくなるための選択肢を作るため。


で、改めて思うのはこーゆう発信をしたり、やってること、想いを伝えると響くのは福祉従事者よりも福祉の現状を知らないジャンルで生きてる人達。今回の韓国でも、ちばる食堂のような選択肢があることで自分の親も生きがいが生まれるから

是非そんな環境があってほしいと思ってもらえた。


人や街を動かすのは専門職じゃなく

そこで暮らす人たち。


これは万国共通なのかもしれない