秋の夜長にこんばんは

アントニオ猪木さんが最期介護保険サービスを使ってたか分からないけど、もし使ってたとして介護職員に『お元気ですかぁ』っていじられてたらどーしようと勝手な心配をしてる市川貴章です




最期を迎えてしまえばあっけないんだけど
そこまでの過程ってとても大切だなぁと
何が正解かなんて、僕ら第三者は知るはずもなく
僕が当事者になった時に初めて気づくことなのかもしれない。そーじゃないかもしれんけど

人は必ず最後の時を迎える
何十億と稼いだ人も後世に名を残すような人も
日本中から注目されるような人もみんな。

よく『楽しいことだけやって生きる』とか『嫌いな人には会わない』とか。今目の前にある現実についてそぉいう人がいる。間違ってないと思うし僕もなんならそーゆう感じはある。

でも、介護脳になってる僕からすると
どーしても、おじーちゃんおばーちゃんベースで
頭を動かしているところがある。

『楽しいことだけやって生きる』も
『嫌いな人に会わない』も。

今体が十分に動けて、時間も自由に調整できる環境や状況にあるからその選択をし、今を楽しむことができる。おじーちゃんおばーちゃんたちもきっとそぉだったかもしれない。

でも、最期のほう。
なんらかの病気になったり、老いだったりで
介護が必要な状態になったり、認知症を発症したり。そん時、これまで生きてきた、楽しむための選択肢や嫌いな人には会わんでいいわっていう、一方通行な選択肢は遮断され、いっぺんに通行止めになる。立ち往生し、自分の選んできた道じゃない方向へ進まざるをえないこともある。

そこに、僕らは『働く』という選択肢を用意してみた。かれこれ3年になる。介護保険制度を併用しながらだけど、今働いてくれてるみんなは凄くイキイキと働いている。これは、新たな選択肢を自ら選んだから。でも、このことがいつまでも続くのかが問題だね。人は必ず最期をむかえる。

今は働きたい人がいるからお店を開けてられるけど、今後『働きたくない』人ばかりになったら
流石に、店は開けてられない。

課題は続けることよりも、高齢化率No. 1の
日本だからあり続ける『文化』的なものとして
日本中に定着させることが必要だと思ってる。

正月があったり、バレンタインデーがあるように
人に丁寧に挨拶をしたり感謝をしたりするように
来客があったら、心地よく過ごしてもらうための配慮やおもてなしがあるように

おじーちゃんおばーちゃんになっても
働き続けられる場所がある。それは、汗水を垂らして働く労働の対価をガッチリとるような働き方ではなく。その人その人ができることを、やりたいと思うことを楽しみながら、やり甲斐を得ながら働く場。自ら選択をして居られる場所。

ちばる食堂はそーなっていくだろう。

今後年月が経てば経つほどに

例え僕にお金がたくさんあったとして
毎日遊ぶように暮らして居たら、数日後にはその遊びに飽きて、楽しかった遊びを放置するようになる。1日の大半、人生の大半を『働く』ということに費やしてきた僕らは、何もなくなった時に
何をしたらいいのか分からなくなる。特に、なんとなく遅刻しないように寝て起きて、嫌なんだけど仕事にいって、買い物して、ご飯食べて、風呂入って寝る。

だいたい活動してる。そこには、リターンがあるからなのかなぁ。
まぁでも、僕がおじーになった時今のままの日本なら面白くもないので、きっと再起業して新たな挑戦にくるだすだろうな。

何もない時間をただひたすらに過ごす場所に居続けるよりね。時には施設って選択肢があってもいいけどね。まぁなんにせよ自分の選択肢の中で生き続けたいでしょ。

たとえ認知症になってもね。