皆さん、こんにちは!
大分ご無沙汰しておりました。筆不精の私をお許しください。

私は今、せっかく大学院(早稲田大学公共経営大学院)に通っていますので、そこで勉強していることについても、ブログに書いてみよう!と思いました。授業の中では、読んだ書籍から自分が考えたことをまとめて提出する授業が多いのですが、私が書いたものの中で、まだ人目に晒すことに耐えうるかな?と思われるものを、たまにご紹介しようと思います。

今日は、C. ペイトマンの「参加と民主主義理論」という本の1~2章を読んでの私の感想です(あくまで「私の」感想ですので、公的に何ら権威のあるものではありません)。

あ、キャロル・ペイトマンさんというのは、イギリス出身の政治学者で、現在はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(いわゆるUCLAってやつですね)の教授をされている方です。

 C. ペイトマンによる「参加と民主主義理論」の、少なくとも12章における最大の論点は、シュンペーターをはじめとする民主主義の現代理論と、ルソー、ミル及びG. D. H. コール等による古典理論(民主主義の参加理論)との対比である。

私自身は、ペイトマンと同じ立場をとり、民主主義の参加理論の側に立つ。もちろん、シュンペーターたち「民主主義の現代理論」派の論客たちが主張する意見についても、納得できる点が多いことは認める。同時に、民主主義の参加理論が理想的過ぎるという意見に対しても、現実の世界を考慮すると納得できる面はある。まさに現代の、特に日本人の政治に対する無関心は危惧すべき状況にあろう。前回の参議院議員選挙(国政選挙)の投票率は52.61%50%は越えたとはいえ、戦後3番目の低さであった。地方議員選挙の現状は惨憺たるものである。一つの例ではあるが、私が居住する千葉県船橋市の市長選挙(20136月実施)の投票率は34%。市議会議員選挙の投票率はこれより低い。このように政治に関心の無い市民の参加を求めるなど夢物語に過ぎない。むしろ、このような層が中途半端に政治に関わるとその安定性を脅かす。さらには、全体主義に傾斜する可能性まで孕む。民主主義の現代理論の論客たちが危惧し、一部のエリートのみに政治は任せた方が、安定性も、効率面でも効果的であることに疑念の余地はないように見える。

しかし、私は、民主主義の現代理論の論客たちが目指す政治体制は、少なくとも日本においては、「戦後復興から高度経済成長へ」というように、目標が一つで明確な時代には、その効率性や安定性という面で効果的であることに同意するが、現在のような、国民の価値観が多様化し、国の目指す方向も定まらない時代にあってはそぐわないと考える。むしろ、今後の社会は、参加型によって、一人ひとりの国民(市民)が力をつけ(古典派理論が主張する教育的機能)、主体的市民となって、自ら能動的に人生を生き、地域づくりやまちづくりに関わり、それぞれの幸せを求めていくべき時代になるのではなかろうか。国が国民の方向性を示すのではなく、国民一人ひとりが、自らの生きる道を考えて選択し、自らの自治体や国の方向を主体的に考えていく時代。そのために、これからの時代にこそ、ルソーやミルの考える「参加型の民主主義」が主役に躍り出てくるべきであり、政治家というのは、そのような流れを促進するための触媒たるべきと考える。「民主主義は非効率」とはよく言われることであるが、すでに効率性のみを追い求める時代ではなくなった。一人ひとりの国民のレベルアップなしに、今後の国の発展はないものと考える。国民(市民)一人ひとりの力や可能性を信じるべきである。

2013年11月11日 石川亮(いしかわりょう)