長野県の昔話

撃たれた母猿を生き返らせようと必死に温める子猿の話

昔、信州の上伊那(かみいな)のある山奥に勘助(かんすけ)という猟師がおりました。勘助は、妻に先立たれ、一人息子の与三松(よそまつ)を大切に育てておりました。

 

猟師と言っても冬の間だけであって、普段は畑仕事をしていました。ある年、旱(ひでり)がおこり、畑の作物が残らず枯れてしまいました。勘助は、育ち盛りの与三松のためにも早く冬になって猟ができるのを心待ちにしていました。

 

そして冬になり、はやる気持ちを抑えきれず、夜明けを待たずに猟に出かけました。ところが獲物がどこにもおらず、必死で山の中を歩き続けていると、一匹の猿が木の間で吹雪から身を守るようにうずくまっているのを見つけました。

 

 

普段は猿など捕らない勘助でしたが、この時ばかりは猿を撃ち落としました。持ち帰った猿は、その日のうちに食べるとあたってしまうので、空腹を我慢して肉が硬くなってしまわないように囲炉裏の上の「ひだな」にのせてその日は、与三松とともに早く床に入りました。

 

それから、どれほど時がたったころか、囲炉裏のある部屋で何やら物音がして勘助は目を覚ましました。こっそり覗くと、三匹の子猿が囲炉裏の鈎を登ったり降りたりしているのです。よくよく見ていると、子猿は囲炉裏の残り火に手をかざして温め、鈎を登ってひだなの上に乗せられている死んだ母猿の傷口を温めて生き返らせようとしているのでした。

 

 

それを見た勘助は、寝ている息子を振り返り、子猿達から母親を奪ってしまった罪の重さにいたたまれなくなりました。夜が明けてから勘助は、神棚に猟銃を荒縄で縛って置き、「二度と猟はしない」と固く誓いました。

 

そして母猿の遺体を大切に抱えると、小高い丘にある傘松(からかさまつ)の根元に丁寧に弔い、山神様の祠を建てて供養をしました。勘助によって手厚く葬られた母猿のお墓は今も上伊那の奥、長谷村に今も残っておるということです。

 

出典:日本昔話データベース