高崎市新町の上武大学の東にある「諏訪神社」です。この神社は延長3(925)年に毘沙吐村(びさどむら)(埼玉県上里町)に造られたと伝えられます。弘化(1846)3年に村を襲った大洪水のため境内及び全村悉く押し流され、村は壊滅状態となり新町の下河原に移り、当社も現在地に移築されたと言われます。社殿は宝暦年間(1751~64)に造営され、中央に諏訪社、右に大杉社、左に稲荷社の三社が置かれています。建築は精巧を極め、特に海老虹梁(海老のように湾曲した梁)の「ぶどう」と「りす」の彫刻は、桃山様式を窺わせます。

 

 

 

 

「毘沙吐村」は「安政7(1860)年まで神流川の東、埼玉県上里町にあったが、弘化3(1846)年の大洪水で壊滅状態となり、神流川の西、新町下河原に村を移した」のです。移転には、笛木新町側との交渉や、代官への願書提出を経て、岩鼻陣屋から正式に移住許可が出たのは、嘉永元(1848)年のことでした。そしてまず龍光寺と諏訪神社を遷座し、新しい土地での平安な暮らしを祈ったのです。しかし、全村民が移住するというのはそう簡単ではありません。移住を逡巡する村民もいる中、安政3(1856)年またもや神流川の濁流が村を襲い、残っていた家の内4軒が流されます。全村民の移住が完了したのは安政4(1857)年、実に9年の歳月が必要でした。時は明治に変わり、行政区や税制が改められると、「毘沙吐村」にまた問題が持ち上がります。上野国新町字下河原に移住しながら、武蔵国賀美郡毘沙吐村となっているのは名実に反し不都合であると、新町側からの合併話が出てきます。毘沙吐村側では今まで通りにしたいと武蔵国の方に嘆願をしますが、新町側は明治9(1876)年から毎年のように県や郡に願書を出し続け、ついに明治12(1879)年合併が決定します。合併後は「川岸町」と改称され、「毘沙吐村」という地名は失ってしまうことになりました。この歴史が、「諏訪神社」境内の「沿革之碑」(昭和10(1935)年建立)に刻まれています。