高崎市新町にある弁天島は、新町宿の西端を流れる温井川の中州の小島で、弁財天の祠がありました。新町宿は江戸時代から俳諧の盛んな土地で、俳聖芭蕉を敬慕する気風もあり、落合新町と笛木新町にも芭蕉句碑が現存します。ここ弁天島の句碑は「むすぶより はや歯にひびく 泉哉 はせを」とあり、安政2(1855)年久保一静、斎藤速見らによって建てられました。島にはみどりの清水と呼ばれる水が湧き出て、往来の旅人は足を止め、喉を潤したと言われています。

 

 

現在は川岸のこの場所は、看板にあるように以前は川の中州だったようです。寛政11(1799)年に実地検分され文化3(1806)年に完成した「五街道分間延絵図(ぶんけん・のべえず)」のひとつ、「中山道分間延絵図第四巻 本庄・新町・倉賀野」を見ると、たしかに中州です。

 

 

句碑の意味は、「結ぶ(水をすくう)より早く、冷たさが歯に沁みるような泉だな」という意味でしょうか、「はせを」は、「ばしょー」つまり「芭蕉」です。「泉」というのが夏の季語ですから、夏の焼けつくような熱さの中、延々と街道を歩いてきての句なのでしょう。もちろん、この場所で詠んだ句ではないでしょうが、川の中州の「弁天島」の木陰に建てる碑としては、よくもぴったりの句を選んだものだと思います。この句碑を建てた久保一静は、新町宿に二軒あった本陣のひとつ「久保本陣」の当主で、名主役も務めていました。 文化九年(1812)生まれで、幕末から明治にかけて地方の俳人として活躍し、明治二十七年(1894)八十四歳で没しています。