岩鼻代官所

岩鼻は江戸時代、幕府直轄の代官所(陣屋)があったことで世に知られました。寛政5(1793)年 幕府は初代の代官に吉川栄左衛門と近藤和四郎を当地に派遣し、陣屋を建設しました。これにより明治4(1871)年10月まで78年間、北関東の諸大名に睨みをきかして、天領支配の中核をなしました。岩鼻陣屋は関東取締出役「八州廻り」の根拠地として、代官が手先を引き連れて、天領各地の取り締まりに出張りました。慶応元年に木村甲斐守が関東郡代となり、上野、下野、武蔵の三国散在する幕領50万石を管理するようになりました。その後間もなく明治維新を迎え、明治元(1868)年 新政府は6月に岩鼻県を設置し大音龍太郎を軍艦兼当分知県事(知事)に任命し、旧代官所跡地が岩鼻県庁となり、旧代官所時代とほぼ一致する地域を支配しました。その後、明治4(1871)年10月28日岩鼻県は廃止され第一次群馬県に統合されました。

 

 

 

岩鼻監獄

明治3年8月24日に岩鼻監獄は誕生しました。所在地は上野国岩鼻村で、岩鼻県庁に近接した場所に設置され、発足当初は5,019坪の敷地でした。これは明治維新後、最初に設置された監獄であったと伝えられています。初代典獄(刑務所長)は近藤清氏であり、その任期は明治6年3月31日から同19年10月23日までとされています。同氏は越後国古志郡の出身で、若い時代に神道無念流の剣術を学び免許を受け、師範代となり、戊辰の役では官軍の剣術教授を務め、明治2年7月に小菅県牢屋取締となっています。その後、群馬県に来て、明治19年10月までの間、一貫して同監獄で勤務しています。他方、同氏は明治22年4月に同監獄跡地の払い下げを受けで、自宅を建てました。

 

 

岩鼻軽便鉄道

倉賀野駅から岩鼻火薬製造所前に至る2.6km間の鉄道敷設免許の申請が、内閣総理大臣・大隈重信宛てに提出されたのは、大正4(1915)年12月24日でした。翌年1月24日免許状が下付され、7月21日に資本金6万円で岩鼻軽便鉄道株式会社が設立されました。岩鼻軽便鉄道の「軽便」は車両や、路線が軽便だったのではなく「軽便鉄道法」に基づいて申請され、建設されたことに由来しています。大正6年4月28日倉賀野駅と上州岩鼻駅の間が開通しました。その後、火薬の原材料、製品の輸送に当たっていましたが、昭和20年8月14日に運輸省に廃止願を提出し、8月10日に廃止許可を得て、終戦の日を挟んで8月30日に廃止実施と記録されています。

 

 

 

参考資料:岩鼻「歴史マップ」