高崎市綿貫町には、菅原神社、稲荷神社、諏訪神社、赤城神社、鳴子神社の5社があります。

『菅原神社』

綿貫町字小林の『菅原神社』の祭神は「菅原道真」(すがわらみちざね)です。実在の人物を神格化して祀る代表例で、天神社、天神様、天満宮等いくつかの呼び名があります。菅原道真(845―903)は右大臣として活躍した当時、一流の知識人でしたが無実の罪により北九州の大宰府に左遷され非業の死を遂げます。その後、都では落雷などの被害や道真を陥れた者たちが次々に怪死する事件が相次ぎました。人々は道真の霊を鎮めるため北野天満宮(京都)を建立しました。道真が生前に優れた学者であったことから学問の神として信仰されています。

 

 

『稲荷神社』

綿貫町字曲師の『稲荷神社』の祭神は「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)です。稲荷信仰は渡来系の有力豪族・秦氏によって開かれ、伏見稲荷大社から広まった信仰です。稲荷神社の祭神は農耕神である宇迦之御魂神を祀ります。この神様の名称は古事記では「宇迦之御魂神」といい、日本書紀では「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)とも書きます。また五穀豊穣の神様として「保食神・宇気母智神・豊受大神」等いろいろな名称があります。もともと稲荷とは、稲の生育を意味する「稲成」が語源と考えられており、五穀を司る農耕神でした。中世以降に商工業が盛んになると霊験あらたかな万能の神とみなされ、江戸時代には商売繁盛の神として大流行しました。

稲荷山古墳(綜覧番号岩鼻第24号)に建立された社で、古墳の形状は円墳、横穴式石室、出土遺物は須恵器で、石室には凝灰岩が使用されています。

 

 

『諏訪神社』

綿貫町字原北の『諏訪神社』の祭神は「建御名方神」(たけみなかたのかみ)です。「古事記」に大国主神の御子神として登場します。「国譲り」神話の中で、父の大国主神が高天原の最高指令神の天照大御神から「地上の国の統治権を禅譲しなさい」と迫られた時に、最後まで抵抗したのが建御名方神でした。この神様は武勇の守護神、雨・風の守り神、水の守護神で五穀豊穣の神様です。

 

 

『赤城神社』 

綿貫町字赤城の『赤城神社』の祭神は、「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)です。「日本書紀」によると崇神天皇には二人の皇子がいました。兄は「豊城入彦命」、弟は「活目尊」(いくめのみこと)と言いました。崇神天皇は自分の後継者を決めかねていました。そこで二人の見る夢を占って決めようと思いました。兄の夢は「御諸山」に登り、東に向かって八度矛を振り、八度剣を振ったという答えでした。弟の夢は「御諸山」に登り、四方に縄を張って粟を食う雀を追い払ったという答えでした。その結果、弟の活目尊は「領土の確保と農耕の振興を考えている」として天皇の位を継がせました。兄の豊城入彦命は「東に向かい武器を振った」ので、東国をおさめさせました。

 

 

『鳴子神社』 

綿貫町字三反割の『鳴子神社』の祭神は「火産霊神」(ほむすびのかみ)で火の神です。「日本書紀」では、火産霊神、軻遇突智(かぐつち)と表記され、「古事記」ではイザナギの神とイザナミの神は多数の神々を生みましたが、イザナミは火の神・カグツチを産み落とします。ところがその時、イザナミは陰部に大やけどを負い命を落とします。残されたイザナギは十拳の剣でカグツチの首を切り落としたとされます。明治12年「上野国神社明細帳」によれば、鳴子神社の由緒は「不詳、鳴子の社号亦其の謂いを知らずといえども父イザナギの神に斬られ給いし故事などによれるにや」と書かれています。火防の神として知られています。

 

参考資料:岩鼻「歴史マップ」