高崎市綿貫町金掘の「不動山古墳」(綜群馬郡岩鼻村第15号)は、井野川が烏川に合流する地点から上流へ約1.0km遡った右岸河岸より200m離れて構築されています。

現在は日本原子力研究所高崎研究所の北辺を走る国道354号線が墳丘の南側裾部を削っており、前方部も1961年(昭和36)頃に土砂採取で掘削され、不動尊堂が祠られて後円部のみが残存します。

 

   

 

 

後円部頂部、不動堂の背後に刳貫式長持形(舟形)石棺の身が露出している。墳丘主軸方向と同方向に置かれているが、後円部中心位から北側にずれた位置にある。原位置のものとすれば別に主体部が存在した可能性もある。凝灰岩製で全長3.45m、幅は上縁で1.4m、床面で1.25を測る。両端に各1個の縄掛突起を有するが、その位置は底部にあり、組み合わせ式長持(舟形)石棺の底板の形状を伝えている。突起部を除く形状は箱形であり、長さ2.84m、幅1.4m、高さ0.82mである。内法は2.4×1.02mの短形プラン、深さ30~35cmを測る。 

 

 

 

これらの特徴から類推すると、本墳は5世紀中葉から後半頃に造営された古墳と推定されます。そうした中で注意したいのは墳形形態であるが、全長94mと規模では太田天神山古墳(全長210m)・伊勢崎御富士山古墳(全長124m)には及ばないが、これら3基の古墳は墳丘プランにおいて相似形であり、同一設計企画でなされたものであることが推定されます。5世紀中葉に太田天神山古墳を頂点とする。「毛野政権」ともいえる政治機構が確立し、その機構の秩序に基づいて本墳の首長も井野川流域に支配圏域を確保したことが窺えます。更に、本墳と同形の古墳は、井野川上流の保渡田古墳群の八幡塚古墳(全長96m)に認められます。5世紀後半から6世紀前半代、「毛野」の地域で前方後円墳の発展をみるのは、ただ井野川流域圏だけです。本墳が井野川流域圏に勢力圏を確立する「上毛野」の中枢豪族の草分け的性格を持っていた首長であったことはほぼ間違いないことです。

 

※舟形石棺は、群馬県内16基の古墳から18例が確認されている。高崎市内では、小鶴巻古墳、平塚古墳、上並榎稲荷山古墳、姥山古墳、不動山古墳、岩鼻二子山古墳、八幡原若宮八幡北古墳の7古墳が該当します。これらの古墳は、おおむね5世紀後半から6世紀初頭の全長100mクラスの前方後円墳をはじめとした、小地域の最上位の古墳で、その分布はいわゆる西毛地域に偏差する傾向にあります。このことからこの時期、群馬県西部を中心に、舟形石棺という同一の埋葬形態を採用することを結合の象徴とする政治的な地域圏が形成されていたとの見解が提起されています。

参考資料:岩鼻「歴史マップ」外群馬県古墳資料