高崎市綿貫町には、綿貫古墳群があり国指定史跡「綿貫観音山古墳」等が現存しています。ここは古代上毛野国の中心地のひとつでした。いつ頃から「綿貫」の地名が付いたか不明ですが、地名の由来の一説として、綿貫は「綿抜」に通じ、朝廷では四月一日を更衣の日として冬の綿入れを脱ぎ、中間衣に着替えた習慣があり、そこで四月朔日と書いて「ワタヌキ」と読んでいたという説もあります。南北朝時代の観応3(1352)年5月29日、足利尊氏が小林繁有に恩賞として与えた「足利尊氏知行宛行状」の中に「上野国綿貫保」とあります。

 

参考資料:岩鼻「歴史マップ」

 

 

綿貫古墳群

綿貫古墳群は、南から「岩鼻二子山古墳」、「不動山古墳」、「普賢寺裏古墳」、「綿貫観音山古墳」の4基の前方後円墳と、これらの前方後円墳の周囲に分布する円墳群から形成されています。分布状況は岩鼻二子山古墳の南方及び不動山古墳の東方から北方にかけての分布が推定されます。「岩鼻二子山古墳」は、前方部を南面して構築された全長120m余りの前方後円墳で、綿貫古墳群内では最大規模です。「不動山古墳」は前方部を西面する全長94mの前方後円墳で、出土遺物は古い時代に発掘されたため明らかでない。不動山古墳の北方には、約150mの間隔を置いて全長65m余りの前方後円墳である「普賢寺裏古墳」が位置しています。4基の前方後円墳のうち北端部に位置するのが、前方部を北面する全長94mの「綿貫観音山古墳」です。綿貫古墳群の4基の前方後円墳は、恐らくは普賢寺裏古墳を最初として、その後は不動山古墳→岩鼻二子山古墳→綿貫観音山古墳と時代を追って造営されたものと思われます。この古墳群の造営の時期は4基の前方後円墳を主墳として5世紀中頃から形成され、その後、若干の時期的間隔を置いて観音山古墳が6世紀後半に出現したものと推定されます。しかも、この古墳群を造成した首長勢力は、渡来系勢力とも深く関わりを持って半島地域の文化の導入、わけても乗馬の技術を群馬県地域において最初に導入した勢力であったことも推定されます。 

 

 

普賢寺裏古墳     『5世紀前半、全長65m・前方後円墳』

不動山古墳              『5世紀中葉~後半、全長94m・前方後円墳』

岩鼻二子山古墳    『5世紀後半、全長115m・前方後円墳』

観音山古墳       『6世紀後半、全長97m・前方後円墳』