南八幡地域は、水と緑豊かな自然環境に恵まれた山紫水明の地ですが、過去には洪水や水害に悩まされた歴史がありました。有史に残る大水害として、明治43年8月6日と昭和10年9月26日の大水害は高崎市史等にも記録されています。特に昭和10年の水害では、当時の高崎15連隊の兵隊が阿久津地内の救護に出動して7名が死亡したという記録もあります。そして昭和10年の大水害の後に、烏川・鏑川の両河川に築堤工事が始まりました。昭和12年には現在の烏川堤防が完成し、3年後の昭和15年には鏑川堤防が完成しました。この築堤の完成により現在では、烏川・鏑川に大きな水害被害は無くなったといわれています。(現在の根小屋町築堤工事は別です。)

 

 

「昭和10年の大水害」

昭和10年9月21日~26日にかけて県下を襲った大雨は南八幡全体の浸水はもとより、特に烏川と鏑川の合流に位置する阿久津地区の被害が甚大だった。昭和10年9月26日には阿久津の烏川岸近くの家々を濁流が襲った。養蚕農家の大きな家が見ているうちに浸水して、麦藁屋根の家が瓦屋根の家がと三軒が崩れる様に濁流に飲み込まれていったそうです。また、当時の高崎15連隊の兵隊が救護に出動して7名が死亡したという記録もあるそうです。この時の阿久津町の状況を記録した瀧澤濱吉氏の書簡が南八幡公民館に寄贈展示されていますので機会があったらご覧ください。

なお、昭和10年の水害以前にも、明治43年8月6日に有史に残る大水害が発生しており、「新編高崎市史」の災害記録に記載されています。-

 

昭和10年9月24日、九州付近にあった台風が突然北東に進路を変え、上信地方に豪雨をもたらしました。豪雨は10時間余りも続き、9月24、25日の2日間の降水量は安中で314.3mm、三ノ倉(旧倉渕村)では402.5mmに達しました。烏川の上流域と碓氷川支流の九十九川流域で土砂流が発生。当時の群馬郡で40人、碓氷郡で83人もの死者が出る惨事となりました。(令和3年2月19日付上毛新聞、国土交通省広告より) 

 

 

「烏川・鏑川築堤工事の状況」

昭和10年9月26日の大水害の後に、烏川・鏑川の岸に土手を造り水害を防ごうと築堤工事が始まった。中ッ島(ナカッチマ)の土砂を掘ってトロッコにスコップで土砂を投げあげて、1人か2人で押し上げて線路上を運ぶ。現在の共栄橋上流百米位の所を、川より直線で西組の土手まで、そして、線路は上流と下流に分岐していた。土砂を降ろすには、トロッコの枠を外して2人くらいでひっくり返した。当時、一日働いて70銭だった。工事の人足は10人くらいで村内の人も数人働いていた。東側の堤防の末端より土砂を置いて造り始めた。土手の中心は中ッ島の土砂で、表土は30糎余りの厚さで、タコ(綱を引いて中心の木の重りを引き上げて落とす)という道具を、女性4人位で引いては落として表土を固めた。この時の掛け声は、中心の男性が音頭を取ると、続いてみんなが大声で「かあちゃんのためならエーンヤコラ」という調子でした。表面の芝は四隅を竹串などで止め、根つきを良くした。鏑川の築堤工事は、初めは人力でトロッコを押したが、次に馬を使って2・3台のトロッコを引いた。続いてエンジンの動力車を使った鉄製のナベトロを9~10台引いてトコトコと運んだ。子供も土方に出て、賃金は一日60銭で、貸スコップ代2銭を引かれて58銭でした。村人は、トロッコ1台に砂利を積んで10銭で、10台位積む人もあったという。築堤工事は下流の藤岡市森新田、高崎市新町地区も同時に着工しました。                                                                                     

                                             「みなみやはたの歩み・第1集」より