【木部駿河守範虎】(きべするがのかみのりとら) 

木部城主木部家詮(いえあき)は勢力ある上杉定正(扇谷)になびき、平井城主上杉顕定(山内)に嫌われてその家臣に攻められて、越後に出奔して後に越前の永平寺で没した。その子孫、範次は文亀3(1503)年木部村に帰り、軍功を立て名を現わしたが、永正14(1517)年に没した。その子が範虎(のりとら)である。成長して駿河守といい、長野信濃守業政に従い、その雄将として誉れが高く、その女を妻に得た。子を貞朝という。長野氏滅亡後、範虎は木部五十騎を率い甲州(山梨県)に入り所々の戦に功を立て、天目山に武田勝頼に殉じた(天正10年3月11日)定朝は武田氏滅亡後、北条氏に従って運命を共にし、天正18(1591)年木部城は廃せられました。 

現在も木部町公民館には、この範虎が愛用したとのいい伝えがある「鞍」が保管されています。

 

 

 

 

木部駿河守範虎(のりとら)(1510~1582)  木部長野姫(?~1563)

「群馬県多野郡誌」(昭和2年12月刊)中「八幡村」に次の叙述がある。

始め木部城に拠った木部家詮は扇谷(おおぎがやつ)定正が優勢であるためそれになびき、平井城主上杉顕定のにくむところとなり、ついにその遺臣のために攻め破られて越後に出奔し、のち越前の永平寺で死亡した。その子孫範次なるもの文亀3年(1503)木部村に帰り、時に軍功もあり世にあらわれたが永正14年(1517)に死亡した。その子の範虎が成長して木部駿河守と称し、長野信濃守に従い、ついにその姫を得たのである。この2人の間に子あり、貞朝という。

永禄6年(1563)2月、武田信玄は二万余騎をひきいて箕輪城を攻めた。長野勢はよく防いだがついに破られた。木部父子はもとより長野勢にくみして箕輪城にあったが、二十余騎とともに夜に乗じて、ヌルス峠を越え下野(しもつけ)の喜連川(きつれがわ)に落ち延びようとした。父子は足弱の女子たちを引き連れ、ようやく沼の原に出たが、敵軍にであい、ここでも苦境におちいった。範虎の室長野姫は、さすがは武士の娘である。断乎として覚悟のほぞをかため、榛名湖目掛けてざぶんとばかり入水して果てたのである.つきそうていた侍女の久屋もわれもとばかり姫に従った。姫の入水は実に永禄6年2月27日である。

戦国時代、武士の行動は実に不可思議のものがある。姫入水後範虎は武田方に従ったのだ。すなわち木部五十騎を具して甲州に入り、所々に戦功を立てた。しかし、全盛をほこった武田家もまた悲運の日に際会し、有名な天目山の戦いで主従もろとも桔梗が原の露と消えた.実に天正10年(1582)3月11日で、範虎は年72歳だった。子貞朝は武州忍(おし)城にあったが、天正5年宮少輔に任ぜられ、戦雲定めなく、小田原北条の軍に入って篭城にあたり殊功があったが、その没落後北条氏直に従って紀州高野山に入り、ついに大阪で死亡した。ときに天正20年11月4日である。

 

 【位牌関係の考察】

榛名湖畔「御沼霊神社」『竜体院殿自山貞性大姉覚位』 明徳4(1495)年4月8日の年号がある。『久屋妙照信女』…これは竜体院殿の侍女と思われる。ちなみに箕輪城陥落は永禄9(1566)年である。 

心洞寺位牌 『全清院殿心洞芳伝居士』『竜体院殿天性證真大姉』神儀 裏には「文正元乙酉年十一当山建立」「天正十壬午年三月十一示寂」とある…この位牌は後世造られたものであろう。

 永泉寺位牌(田口家位牌) 『禅清院殿心洞芳伝居士』『竜体院殿天生證真大姉』とあり、その裏には「俗名木部駿河守範虎天正十二年六月七日」とあり竜体院殿の方には「榛名入沼長野氏娘天正十二年六月二十七日」とある。 天正十年三月十一日は範虎戦死の日、箕輪城落城は永禄六年(1563)二月二十二日とされる。