高崎市木部町にある曹洞宗、龍谷山金清院心洞寺は、天正元(1573)年鬼石町浄法寺の永源寺三世漱恕全芳大和尚を開山、木部駿河守範虎を開基として創建されました。範虎は木部の地に居を構えていたことから、現在でも地域の人々からは「木部様」と呼ばれ親しまれています。毎年4月1日には範虎の威徳を称え、また地域の平穏を願い法要を営んでいます。寺の境内は木部氏の館跡で、山門を中心に東西に石垣と土塁の一部が残っています。左手奥の大ケヤキの根元に廟所が建立されており、五輪塔は範虎の墓といわれています。(戒名は全清院殿心洞芳傅居士)右脇に並んでいる墓石は範虎に仕えた家臣のものです。範虎の内室は箕輪城主長野業政の娘で、武田氏に攻め込まれた際に榛名湖にて入水し龍に化身となった「木部姫伝説」の主人公(戒名龍體院殿天生證真大姉)です。

 

 

廟 所

 

木部の雨乞い                    

木部町では、その起源は分かりませんが古くから雨乞いの神事が行われていました。終戦後(昭和20年)直後までは、空梅雨で旱魃の年に雨乞いが行われており、陸稲の葉がよじれたり、さつま芋の葉が黄色く変色するようになると、それは旱魃の兆しということで、村の役員が相談して、雨乞いをすることを決めます。そして、村人を代表して榛名神社にお参りする代参者2名を選出します。選出された2名は約30㎞離れた榛名神社に朝の2時頃、自転車に乗って出発します。その後、榛名神社に代参して、御神水を戴き村の心洞寺に戻ってきます。心洞寺には、村の役員をはじめ毎戸1名の出席で100名位の村人が集まり帰りを待っています。そして、御神水を心洞寺の境内にある「木部様の墓」と近くに祀られている「雷神様」に少しずつかけてお参りをした後、和尚を先頭に太鼓をたたきながら鏑川の渡船場があった場所まで行列をなして歩いていきます。鏑川に付くと、御神水を川に流し、下流で待ち受ける村人が互いに川の水をかけあって雨乞いをしました。木部村の雨乞いの後利益は、すこぶる良かったそうで、近隣の村々からも「速く木部で雨乞いをしてくれ」と頼まれたそうです。

参考図書:【みなみやはたの歩み:第2集】

 

 

木部氏館跡

①遺構の形式:複郭・館城

②占地状況:南を旧鏑川河川跡に依存

③築城年代:15世紀

④築城者:木部氏?

⑤規模(東西m×南北m):160m×200m

⑥現状:畑・寺社境内・宅地

⑦残存状況:不良

⑧残存部分:土塁・石塁

⑨その他(発掘調査の有無、地元での伝承等):群馬県埋蔵物文化財事業団『田端遺跡』、山崎一著「群馬県古城塁址の研究」上巻 

 

 

木部城の北東、鬼門の位置に心洞寺がある。ここが館の跡地である。南面山門を中心として、東西に石垣・土居の一郭が残っている。土居の西南角の所に、この寺の開基者で木部城主の木部駿河守範虎の墓といわれる五輪塔がある。単郭の館のようにみえるが、上越新幹線に伴う発掘調査により掘が検出され、外郭を伴う複郭の縄張りを持つことが判明した。検出された本郭堀は折を持っており、地籍図等から東面は三カ所の折を持っていたと推定される。この形式は、古河公方足利成氏が築いた館城の特徴を備えており木部氏が古河公方の幕下だったという伝えも肯定できる。西面は歪んでいたと推定できる。また、山門の所で南北二郭に別れていたようだ。外郭については、西北角と東面に掘りが検出されているので、内郭全体を囲っていたようだ。東面については、戸口と推定される堀の切れ目がある。東は鏑川に近く、ここに船着き場を設けていたため、この戸口が必要だった。この戸口から入ると、正面は内郭の堀と土居になるので、左に折れてから本郭東戸口に入る構造になり、実践的な構えである。築造年代については、木部氏の入部が古河公方と上杉氏の和睦の後であるので、文明十年(1478)頃であろう。ただし、出土物からは、それ以前に何等かの施設があったことを示唆している。木部氏はここから木部城に移り、ここには山ノ上から心洞寺が移ってきた。