高崎市木部町字堀之内にあった囲郭二重造の平城で、現在はほとんどその痕跡を止めないが、明治40年測図、二万分の一地形図には、本丸に巡らされた土囲が明らかに示されている。城域は一辺がほぼ150mの正方形で、北側は鏑川の旧河跡、他の三面に外濠があった。本丸は現在「堀の内」の名が残り、一辺60mの正方形で、吉井陣屋の修築の際、二回にわたり10年間吉井陣屋が置かれたことがある。文明10(1478)年以後、平井上杉氏に属する木部氏が築城し、箕輪城長野氏と興亡をともにしたことは有名です。

 

 

①遺構の形式:複郭(回字型・囲郭)

②占地状況:北面を旧河川に依存した平地

③築城年代:16世紀

④築城者:木部氏

⑤規模(東西m×南北m):200m×160m

⑥現状:水田・畑・宅地

⑦残存状況:消滅

⑧残存部分:なし

⑨古文書等の記録:「浦野文書」・「田口文書」・「飯島文書」・「小林家文書」・「甲陽軍鑑」

⑩その他(発掘調査の有無、地元での伝承等)

 

参考図書:山崎一著「群馬県古城塁址の研究」上巻

 

木部氏館(心洞寺)の西南、鮎川の旧河川を隔てた所にある。木部氏は当初木部氏館に居住し、ここへ移ったのは心洞寺移転との関連で、天正の頃と推定されるが、城の形式を考えるとそれより早く築いていたかも知れない。ここは北を鮎川の旧河川に依存し、囲郭式に築かれている。この旧河川が西から北へめぐり、さらに東と南は鏑川という天然の外濠を備えている。木部氏館と比べ占地としては勝っている。しかしそれでも大きな要害に乏しいので、山名城を改修して詰めの城とし、ここは里城としていた。本郭は東西南北とも、75m程の方形で、東南隅を少し欠いていたようだ。戸口は、南面東寄りにあったようで、東面のものは、外郭戸口から入って折れて入る構造で、木部氏館の戸口構成とよく似ている。南面の戸口は、外郭南面戸口の延長上と推定される。外郭は西・南・東と濠をめぐらし、本郭を囲っている。北面西寄りに水田となっている窪地があるが、舟入にでもなっていたのであろうか。城の南は、宿と考えられる。字古八幡は山名八幡宮の古地と考えられる。門前の宿もあったであろうから、このこともここへの築城の理由の一つであろう。甘利昌忠が永禄六年(1563)に箕輪城周辺に放火した後、木辺(部)に陣を寄せ、「当古地従今日御再興、自元存外堅固之候条、十日之内に可為急出来候、」(「浦野文書」)と古地(城)を再興したので、一時廃城になっていたことがわかる。木辺(部)範虎の妻は長野業政の女で、武田氏の上州侵入には長野方として戦ったが、箕輪城落城後武田氏に仕え、50騎の将といわれた。元亀頃には、山名に百貫文の所領があったことが「浦野文書」により知られる。後北条の軍役では大体一騎が10貫ほどであるから、他にも所領が散在していたようだ。天正18年(1590)、後北条とともに木部氏も没落し、城は廃された。

 

    

 

木部の城は、今の木部町の中ほど、字丸の内にあった。今はほとんど痕跡をとどめていないが、大正時代までは、高い土居をめぐらした150メートル四方の本丸跡が残っていた。この城は、木部氏の城で、最後の城主宮内少輔貞朝の父を駿河守範虎といった。範虎の奥方は、箕輪城主長野信濃守業政の娘である。関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れて越後に落ちてからは、範虎は、箕輪城防衛の第一線となった木部城を守って、氏康、信玄の重圧をまともに受けながらこの小城を守っていたが、永禄4(1563)年、業政病死ののち間もなく信玄に逐い落され、永禄9(1566)年に箕輪城も落ちて長野氏一族は滅びてしまった。範虎の奥方は世をはかなんで、榛名湖に身を投じ大蛇になったという名高い伝説がある。                                             

 

参考図書:(富田家文書)(「みなみやはたの歩み」P106)(「高崎の散歩道」P89より)