南八幡南部を東流している鏑川(かぶらがわ)は下仁田町の西部、長野県境の物見山付近より源を発し、ほぼ東に流れて下仁田町、富岡市、甘楽町、吉井町を貫流し、阿久津町で烏川に合流する全長58.8kmの利根川水系の一級河川です。この鏑川は、荒船山(あらふねやま)の頂に水の湧く池があって、そこから流れ出ており、鏑川の水は富岡から東の方に住む人々の生命の源でもあります。そして古代には、この谷に外来人が多く住んでいたので、「から」の谷ともいわれていた。また、この地域の人々は養蚕、製糸、機織りにすぐれていたので、鏑川はその水を供給していた。古代にこの鏑川の谷に住んだ人々は、その水源の荒船山を神にまつっていた。それが、貫前(ぬきさき)神社である。ところが、7世紀ころになると、「物部(もののべ)」(武器の製造や管理を職業としている人々の集団)が碓氷郡の方から入っていって、勢いを得て来た。「物部」は大和の石上(いそのかみ)神宮を氏神としていたので、その分社を貫前神社の近くにまつっていた。これが抜鉾(ぬきほこ)神社である。平安時代の後半、12世紀ころになると、抜鉾神社は「武」の神と考えられるようになって、武士に崇敬されるようになり、貫前神社はあるか無きかの有様となってしまい、ついには抜鉾神社が上野国(こうづけのくに)の一宮(いちのみや)となっていった。抜鉾神社が武士の神となると、それに関係のある諸々の名も、「武」に関係あるものにされていった。鏑川はもともとは甘楽(から)の川であったろうが、それを、「かんら」、「かむら」とよんだために、「かむら川」となって、「鏑」の文字があてられるようになった。「鏑」は 「かぶら矢」で合戦の最初に射あって、戦争の開始をつげる矢であり、抜鉾神社に関係づけられてしまった。それから明治維新まで、抜鉾神社は「武」の神とされた。鏑川はこの様な時代の様相でその名がきまっていったようである。

なお、鏑川から取水し南八幡地域を潤す「南八幡堰」の水路は、昭和14年に完成し、山名町、木部町、阿久津町の田畑約71ヘクタールを潤しています。

 

 

 参考図書:「群馬の地名」 尾崎喜左雄著