金井沢碑は 奈良時代前半の神亀(じんき)3年 西暦726年に 三家氏(みやけし)と名乗る豪族が 仏教の教えで結びつき先祖の供養と 一族の繁栄を祈って建てた石碑です。

碑を建てた三家氏(みやけし)は 山上碑(やまのうえひ)に記された「佐野三家」(さののみやけ)を経営した豪族の末裔と考えられており 山上碑を造立した放光寺(ほうこうじ)の僧 長利(ちょうり)と関係の深い人物であると 考えられています。

金井沢碑からは 古代東国での仏教の広がりや 家族関係の実態など 多くのことを 知ることが出来ます。

金井沢碑は 東アジアの文化交流の様子を示す 重要な歴史資料として 1954年に 特別史跡に指定され 2017年には ユネスコ「世界の記憶」に登録されました。

 

金井沢碑

   

 

《金井沢碑の年代》  

金井沢碑の建てられた神亀3(西暦726)年頃は第45代聖武天皇の時代で、奥さんは光明皇后です。この皇后は日本で初めて皇族以外の出身で皇后になった人です。天皇の妃にもランクがあって、皇后は正室です。後世に女御(にょうご)、更衣(こうい)と呼ばれた皇后よりより下位の妃であれば、皇族以外の出身者もいたが、皇后は光明皇后が初めてでした。皇后というのは、天皇が亡くなったあと臨時に天皇の位につく可能性がある特別な地位なので皇族出身というのが不文律でした。ところが、光明皇后の生家である藤原氏が不文律を破って光明を皇后に押し上げたのです。これに対し皇族の代表である長屋王が反発しました。その結果、起きたのが神亀6(729)年の「長屋王の変」という事件でした。長屋王は謀反を企んだという疑いをかけられ、その一家とともに自殺に追い込まれたのです。この無実の罪を着せるという卑法なやり方で殺した藤原氏の代表的人物は、藤原四兄弟と呼ばれる藤原武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の4人です。この4人は事件から8年後(737年)に次々と疾病で亡くなって全滅しました。当時の人はどう思ったかというと「彼らは長屋王の祟りによって死んだのだ」と恐れました。現在、新型コロナウイル感染症は、2019 年12月以降、中国湖北省武漢市を中心に発生し、短期間で全世界に広がり、世界中を震撼させています。今から1200年以上前の金井沢碑の年代には「天平の疫病大流行」といわれ、天然痘が大流行しました。今は伝染病の原因が細菌やウイルスだと科学的に明らかにされていますが、当時の人は「祟り」だと思い怨霊の力を封じ込めようと、「新しい宗教の神」国分寺・国分尼寺の建立の詔(741年)や奈良の大仏(752年開眼法会)の造営を行ったのです。 

 

《日本への仏教伝来》

紀元前6世紀に起こった仏教は、シルクロードから中国(西暦67年)、朝鮮(4世紀)を経て日本(6世紀)に「公伝」という特殊な形で、百済の聖明王から日本の欽明天皇へ「こういう神がいるが、日本でも信仰しないか」というメッセージとともに伝来した。日本人はその仏像の「相貌端厳」(かほきらぎら)したさまに驚いた。それまで日本には人の形をした「神像」がなかったからである。もちろん仏教は大陸や朝鮮半島からの渡来人の間では私的に信仰(密伝)されていたことは間違いないが、初めて朝廷が仏教を「公認」したのが西暦538年です。

そして、渡来系の蘇我氏は仏教受容に賛成したが物部氏は反対した。そこで天皇はとりあえず蘇我氏にこの「神」を祀って見よ、と命じた。このあと蘇我氏系の聖徳太子をも巻き込んだ「蘇我・物部崇仏論争」が起こり、戦争となって仏教派の蘇我氏が勝つ。こうして仏教は広まっていくのだが、為政者の側から見た仏教とは「彫刻・建築・工芸なども含んだ大陸からの総合的文化」という側面が強かった。実際、寺を建てるということは、当時の最先端の技術を使い、いわば「総合文化センター」を作ることだったのです。このように、日本人は初め仏教を宗教としてでなく、学問の一種としてとらえた。仏教が最初のピークを迎えるのは、聖徳太子以降で奈良の大仏(東大寺)が造られたあたりだが、このあたりの仏教は今日の日本人には余りなじみがない仏教です。それは、この時代の寺院は宗教の拠点というよりは、むしろ大学のようなものだったからです。