高崎市根小屋町は、中世には「山本の里」と称されたという。その後、木部駿河守が木部に移り、木部氏の勢力下に「山本の里」も含まれ、木部新田といわれ、木部氏が盛んであった戦国時代にはその所領であったと思われる。永禄の始めに、武田信玄が西上州に侵攻を開始し木部城が落城した。そして信玄が西上州を征服し、山名城(前城)と鷹の巣城(茶臼山城)の間に永禄11(1568)年、甲陽軍鑑では永禄13(1570)年に城を築城し信州の信頼できる将兵を入れて守らせた。根小屋という地名について辞書には「山の上に城のある城下町」とある。山の上に城が築かれたので、その下の集落を根小屋といったのである。そして城の名称もないまま廃城になってしまい、根小屋の地名のみが残ったものである。現在、麓の集落は根小屋町だが、城址は山名町に属している。 

 

 

江戸時代、高崎城中の風流武士たちによって詠まれた高崎八景の一つ「古塁夜雨(こるいのやう)」とは小雨にけぶる城山(根小屋城址)である。江戸時代の根小屋の支配関係は、元禄4(1691)年に幕府代官支配、元禄11(1698)年に前橋藩領、寛延元(1748)年にふたたび幕府代官支配となり安永9(1780)年から高崎藩領となり明治4(1871)年に廃藩置県で高崎県となった。その後、明治22(1889)年4月の町村制施行により、緑埜郡八幡村大字根小屋となり、明治29(1896)年に多野郡八幡村大字根小屋、昭和31(1956)年に高崎市根小屋町となって現在に至っている。

 

 

【高崎八景】

烏川渡舟(からすがわのとしゅう)、浅間暮雪(あさまのぼせつ)、清水晩鐘(きょみずのばんしょう),半田夕照(はんだのせきしょう)、石原晴嵐(いしはらのせいらん)、佐野落雁(さののらくがん)、古塁夜雨(こるいのやう)、少寺秋月(しょうりんのしゅうげつ)  

『武田信玄の財宝』

世に名高い川中島の合戦は、信州善光寺平らであるが、群馬県高崎市のこの附近においても、天文18(1549)年新たに武田信玄の手に加わった上州の先手(さきて)を案内に、甲州軍が西上州に侵入した三寺尾の合戦以来、甲越両軍の激突は、永禄9(1566)年上杉方の耳城箕輪落城まで続いていた。信玄は数年後、この山名丘陵の一部に狼煙(のろし)城を築いている。新附の上州の諸将を監視するためである。その城は現在根小屋城址と呼ばれている堡塁(ほるい)址である。ところでその頃信玄は、上州での軍資金を根小屋城近くの尾根に埋め、事に備えたという話が伝わっている。古老の話では、その場所で足を踏むと、足下は空洞で音が響くので、鳴るが尾根と言うそうである。何年か前、麓の村で戦国時代の方銭を拾った小児のことが、新聞に載ったことがある。