―山名地区―

 

清和源氏、新田義重の子、義範(よしのり)は、この地山名郷を父より本貫地として与えられ、家号を山名義範と改め、此処に居を構えた。現在の此処光臺寺境内は山名館であった。初め義範は頼朝の御家人として平家追討の搦手大将軍源義経に従い、一の谷の合戦(寿永3年・1184年)に奮戦し、その武勲により、清和源氏受領六人の筆頭として伊豆守に任命されている。次の義節(よしたか)より重国・重村・義長・義俊・政氏・時氏と八代にわたり居住していたが、時氏(ときうじ)のとき、後醍醐天皇による、鎌倉幕府倒幕の勅命を受けた足利尊氏に従い京都六波羅攻撃の為、この地より西国へ向かった。その後、建武の親政と南北朝の動乱に於いて時氏の活躍目覚ましく、五か国の守護大名となった。四男氏清の時、十二か国守護大名となり、日本全国の六分の一が領国であったので、六分の一殿と呼ばれるにいたった。その後、明徳の乱(明徳二年・1391年)に於いて時氏の孫。時熙(ときひろ)が活躍して室町幕府の重鎮となった。応仁の乱(応仁元年・1467年)では、時熙の嫡子・山名宗全が西軍の総大将として天下に、その名を轟かせ、歴史を動かした。かくして、山名氏は日本全国から啓仰されたのである。やがて時代は戦国時代へと移り、歴代山名氏もこの動乱を生き抜いていくのであるが、山名氏宗家として、再び故地に戻る事なく、現在に至っている。 

 「光台寺説明板より」

 

 

山名館跡の考察 

山名は源姓山名氏の本貫地である。山名氏の当時の館址は明らかでないが、山崎一はここを山名氏の館として比定している。光台寺が中心となり、自然地形に制約された方形に近い形の遺構があったが、現在は消滅してしまって、地割り等で確認できるのみである。地形は西を小流で限っているが、それから西は3m程高く、北・東・南の三方面は平地が続く。開発領主の館としては疑問も残るが、他の推定できる遺構もなく、ここを比定しておく。ただし、西300mにある西台寺のすぐ南に五輪塔や板碑が多数集積されているので、ここにも中世遺構のあった可能性がある。 

①遺構の形式:複郭

②占地状況:平地

③築城年代:12世紀

④築城者:山名氏?

⑤規模(東西m×南北m):150m×200m

⑥現状:畑・寺社境内・宅地

⑦残存状況:消滅

⑧残存部分:なし

⑨その他(発掘調査の有無、地元での伝承等):山崎一著「群馬県古城塁址の研究」上巻