―山名地区―

高崎市山名町の烏川と鏑川に挟まれて、西から東に延る丘陵の東端に山名八幡宮の社があります。その山名八幡宮西方の小高い丘陵が八幡山と呼ばれています。この八幡山の頂に「御野立所跡」はあります。 

 

 

山名八幡宮西峰の小高い丘陵は通称「八幡山」と呼ばれ、この八幡山の頂に「御野立所跡」(おのたちじょあと)があります。この場所は、昭和9(1934)年11月秋、北関東で陸軍特別大演習が展開され、ここに数万の兵士が動員され東西両軍に分かれての遭遇戦の決戦が、当時の多野郡八幡村の烏川右岸でおこなわれました。その時に昭和天皇が、この丘に立って全軍をご統監された場所です。この統監した場所を「御野立所跡」として永久保存すべく石碑が建立されました。石碑は昭和11年11月13日建立で、裏面に当時の八幡村関係諸団体の名前が刻まれています。

 

 

「陸軍特別大演習の概要」

昭和9年(1934)11月11日から4日間にわたり、陸海軍を統帥する大元帥である天皇陛下を迎え、群馬・栃木・埼玉を舞台に陸軍特別大演習が行われました。そして3日目の13日には、上空に陸軍の飛行機が飛び交う中、藤岡方面の西軍と高崎方面からの東軍が、鏑川・烏川を渡河し、山名尋常小学校裏の赤沼から木部西にかけて勝敗を決する決戦が行われました。

3日目の13日には、昭和天皇が蒸気機関車に引かれたお召列車で東京から高崎駅に到着し、上信電鉄線を経由して午前7時30分に山名駅に到着し、白馬に乗り県道を北に進み山名八幡宮の参道から神社右側を通り八幡山へ登りました。

 

 

天皇の乗る白馬が、山名八幡宮の入り口にかかるや、小学校の松村勇夫先生の「最敬礼」の号令のもと、沿道に整列した尋常小学校の児童、村民が一斉に頭を下げ迎えたそうです。そして、天皇は八幡山に設けられた多野郡八幡村山名野外統監部おいて演習を統監しました。

天皇陛下の野外統監部への臨場に際し、警備上の不手際があり、責任を感じた山名駐在の渡辺弘巡査が桑畑で割腹するという事件。また、演習後の16日、桐生市巡行の際、先導車が道順を誤るという有名な鹵簿誤導事件もありました。

 

 

「山名駐在所巡査割腹事件」

陸軍特別大演習が行われた演習日の11月13日、屋外統監部への昭和天皇ご臨場に際し、警備上の不手際があり、責任を感じた山名駐在の渡辺弘巡査が桑畑で割腹するという事件が起こりました。山名の警備不手際というのは、当時の『上毛新聞』『東京朝日新聞』によると次のようなことでした。天皇陛下臨場の野外統監部の候補地は、山名の八幡山と観音山の2か所で、山名に決定したという正式な通知は、前橋統監部から前日の12日午前11時30分に発表されていました。しかし、天皇陛下の山名到着予定が午前7時30分ごろであったにもかかわらず、県警察部の手配が遅れたため、警官が警備位置に着いたのは当日の午前5時ごろでした。すでに山名付近は多数の群衆が殺到して大変混乱していました。割腹した渡辺巡査は、高崎市内の取締まりを命ぜられ不在でしたが、駐在地の失態の責任を感じ事に及んだもので、警察部の無統制の犠牲になったのではないかと報じています。

なお、当日青年団員として山名の警備に当たっていた伊藤幸一氏によると、13日の当日、前夜から集まっていた近郷近在の何千人という群衆は誘導され、山名八幡宮とは反対側の小高い畑地に集められていたため、特に問題はなかったということです。一方、八幡宮参道には地元山名の人たちが多数詰めかけていました。しかし、整理が不十分であったため天皇陛下が馬に乗って通る道路には、綱も張られていなかったそうです。上信電鉄で山名駅に到着した天皇陛下が白馬に乗り換え山上に向かう際、群衆が前へ前へと出たため、最前列の人は天皇陛下の馬に手で触れることができるほどであったそうです。     

 「参考資料:高崎市ホームページ」

 

「天皇鹵簿(ろぼ)呉導事件」

歩兵第15連隊の観兵式に出席した後、11月16日に昭和天皇一行が桐生市を視察したが、途中天皇一行が行方不明となる事件が発生しました。これを桐生鹵簿呉導事件とよびます。この事件で当時の県知事が更迭され、後任として赴任した君島清吉知事は、皇室の尊厳と、県民の意識発揚を目的として、県内古墳の一斉調査を実施しました。(この時の調査では、県内古墳総数8,423基でした)

 

「白衣大観音建立」

昭和9年の秋、高崎市建設業界の先駆者井上保(やす)三郎翁は、陸軍特別大演習を統監するために群馬県に行幸した昭和天皇に単独拝謁の栄に俗しました。当時としては異例のことであり、感激した井上翁は、高崎の観光振興と、陸軍十五連隊戦死者の慰霊を祈願して高さは41.8mの、白衣大観音を建立、昭和11年10月完成開眼されました。観音像の原型は伊勢崎の彫刻家森村酉三氏によるもので、森村氏はそのお顔について、「天平の如意輪観音から素材をとっているが、明治、大正、昭和の美人の顔がそれぞれ織り込んである」と語っていたそうです。 特に、参詣者と「観音さま」の目が見つめ合うような角度にすることに、大変苦労したという。この原型を、池袋のアトリエから日本橋の井上工業東京支店まで、布団に包み自転車の後ろにくくりつけて運んだのが、当時入社間もない元総理大臣田中角栄氏だったというのは、有名な逸話です。田中元首相は新潟の高等小学校を卒業後、裸一貫で上京し、井上工業東京支店に住込みで働いていた。田中元首相は、親の家産が傾いたために、極貧の幼少時代を過ごしたようで、 井上工業創始者の井上保三郎翁もまた、親が「高崎御伝馬事件」で入牢したことにより、苦境の中で幼少期を送っている。井上工業東京支店勤務時代の田中元首相は、働きながら神田の中央工学校土木科に通っていた。横田忠一郎氏は、当時のことをこう語っている。「たまたま井上工業高崎本社から東京支店に出張していた横田が、事務所で仕事の打合せをしていた時のことであった。 暗くなって工事現場から帰ると早々に、夕飯を噛み噛み、数冊の本を小脇に抱えて、只今から夜学に行ってまいります。という一青年に出会った。いまどきの若い者にしては感心なものだと、独りうなづいていたが、この青年が将来の日本を背負う総理大臣になるとは、夢にも思ってみなかった」。