仏教の開祖のお釈迦様は、今から約二千五百年前の古代インド、釈迦族の王子であった「ゴーダマ・シッタルター」と言う実在の人物です。彼は二十九歳の時に妻子を捨てて出家し、六年間苦行を重ね、三十五歳のときに菩提樹の木の下で「さとり」を開き仏陀となりました。

 

お釈迦様の「さとり」は、すごくシンプルなもので、「心の迷いから抜けだし真理を会得する」にはどうしたらよいか、というものです。この場合の真理とは「苦しみはすべて執着から生まれる」と考えました。この執着の原因は「諸行無常」つまり、この世に変わらないものは何一つない、ということが分かっていないから人は苦しむのだというものです。だから、物事に執着しない、とらわれない。「さすれば苦から解放される」というのがお釈迦様の「さとり」です。

 

 

この「さとり」を開いたお釈迦様が、多くの人たちから尊敬されている姿を見て、ひがんでいる男が居ました。「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。いまいましい」、男はそう言いながらお釈迦様をギャフンと言わせる為の作戦を練りました。

 

男の作戦はこうです。群集の中で口汚くお釈迦様をののしる、すると悪口をいわれたお釈迦様はきっと汚い言葉で応酬してくるだろう。そうしたら、こいつはこんなに心が狭いやつだったのかと人々は感じ、彼の人気がアッという間に崩れてしまという作戦でした。

 

 

翌日、男はさっそく、大勢の群集を前に説法をしているお釈迦様の前に行って、「お前みたいないい加減な男は見た事が無い、何がさとりだ、この嘘つき野郎」等々、散々、罵詈雑言(ばりぞうごん)をぶつけました。

しかし、お釈迦様は、ただ黙ってその男の言葉を聞いていました。弟子たちは悔しい気持ちで「あんなひどいことを言わせておいていいのですか?」とお釈迦様に尋ねました。それでもお釈迦様は一言も言い返すことなく黙って、その男の悪態を聞いていました。

 

やがて男は一方的に悪口をいい続けたせいか疲れがでて、しゃべる力が少し弱くなってきました。

その様子を見て、お釈迦様は男に「一つ質問していいでしょうか?」といいました。男は「なんだよ」と反応しました。

「もし他人に贈り物(プレゼント)をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物(プレゼント)は、一体誰の物でしょうか」、こう聞かれた男は、突っ張るように言いました「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら、贈ろうとした者のものだろう。分かりきったことを聞くな」。男はそう答えてからすぐに、「アッ!」と気づきました。

お釈迦様は静かにこう続けました「そうだよ。今、貴方は私のことを罵った、でも、私は受け取らなかった。だから、貴方が言ったことは、すべて、貴方の物なのですよ」。これを聞き男は黙ってその場を去って行ったそうです。

 

皆さんは、この話を聞いてどう思ったでしょうか。

色々な示唆がありますが、今の世情を反映している話だとも思います。

世の中には目立ってしまったとか、失敗をしたときにその人に攻撃が来ます。それを受け取ってしまい不幸な結末を迎える人もいれば、受け取らずに前を向ける人もいると思います。

「受け取るか」「受け取らないか」という考え方をしてみるのも大事だと私は思います。

 

参考文献《文章は、インターネット上に掲載されている文章を基にアレンジしています。イラストは、インターネット上に掲載されている無料画像を使用しています。》