古代城館 №6
中世の「山名宿」(やまなじゅく)
中世の歌謡集「宴曲抄」(えんきょくしょう)《生安3(1301)年8月成立》は、鎌倉時代の僧といわれる明空によって編纂された歌謡集ですが、その中の「善光寺修行」には、鎌倉から善光寺(ぜんこうじ)に向かう道中が歌物語としておさめられ、その道中の地名が歌いこまれています。また、「真名本 曽我物語」にも上野(こうずけ)から信濃(しなの)にぬける間の交通の要衝が記述されています。これらから交通路を復元してみると、児玉宿(埼玉県)⇒山名宿(高崎市)⇒板鼻宿(安中市)⇒松井田宿(旧碓氷郡)となります。
鎌倉時代の永寿2(1183)年と建久8(1197)年の源頼朝の善光寺参拝をきっかけに、善光寺詣でがブームとなり、多くの人々が鎌倉街道 上道(かみつみち)を通って信濃の善光寺へと向かいました。また、「真名本 曽我物語」は、建久4(1193)年5月28日に起きた曽我兄弟の仇討を題材にした軍記物語で、源頼朝が信濃三原の狩倉を見に行く場面には、「上野国に入りせ給えば、山名、板鼻、里見、髙山…の人々用心更に間断なし。信濃と上野の境なる碓井山を越え給ひ、沓掛の宿に着き給ふ。」との活写があります。
「宴曲抄」 善光寺修業
『吹送由井の浜(鎌倉市由比ヶ浜)音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山(鎌倉市常盤)、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢(むら)、小萱(おかや)(藤沢市村岡付近)刈萱露ながら、沢(藤沢市柄沢付近)辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつゝなれにしといひし人の、干飯た(横浜戸塚区飯田)うべし古も、かゝりし井手の沢(町田市本町田)辺かとよ、小山田の里(町田市小野路町)にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関(多摩市関戸)と今ぞしる、おもひきや、我につれなき人をこひ、かく程(国分寺市恋ヶ窪)袖をぬらすべしとは、久米河(東村山市)の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野(所沢市一帯の地域)はかぎりもしらずはてもなし、千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、光も細き暁、尋ても見ばや堀難(狭山市堀兼)の出難かりし瑞籬(狭山市三ツ木)の、久跡や是ならん、あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川(狭山市の入間川)、あの此里にいざ又とまらば、誰にか早(苦林,埼玉県毛呂山町)敷妙の、枕ならべんとおもへども、婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵(嵐山町大蔵)に槻河(嵐山町菅谷を流れる川)の、流れもはやく比企野が原(嵐山町菅谷周辺)、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨(小川町奈良梨)、 打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる浪の荒河(寄居町の荒川)行過て、下にながるゝ見馴川(寄居町の小山川)、見なれぬ渡(見馴川の渡)をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、是やは児玉(児玉町児玉)玉鉾の、道行人に事とわん、者(もの)の武(ふ)の弓影(ゆみかげ)にさはぐ雉が岡(きじがおか)(児玉町八幡山)、矢竝(やなみ)にみゆる鏑河(かぶらがわ)(鏑川)、今宵はさても山な(高崎市山名町)越(こし)そ、いざ倉賀野(高崎市倉賀野町)にとゞまらん、夕陽西に廻(めぐり)て、嵐も寒(さむい)衣沢(ころもざわ)(高崎市寺尾町)、末野(まつの)を過て指出(さしで)(高崎市石原町)や、豊岡(高崎市豊岡町)かけて見わたせば、ふみとゞろかす、乱橋(らんきょう)の、しどろに違板鼻(いたはな)(安中市板鼻)、誰(ただ)松井田(安中市松井田町)にとまるらん』

上記、赤字で示したところは鎌倉街道 上道(かみつみち)の地名で、( )内は現在の地名です。このルートでは神流川を越えて上野(こうずけ)にはいり、『鏑川(かぶらがわ)』を渡り『山名宿』(高崎市山名町)に至る。『山名宿』から観音山丘陵沿いに北上し(鎌倉街道の伝承がある)、指出(高崎市石原町)でまた川を渡り、台地上を板鼻(安中市)に進むルートです。
当時の鎌倉街道には、「上道」(かみつみち)・「中道」(なかつみち)・「下道」(しもつみち)の3ルートがあり、「上道」は鎌倉から上野・下野・信濃方面へ抜ける街道。「中道」は鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る道。「下道」は鎌倉から朝比奈切通を通り、六浦から房総半島を渡り、下総国府・常陸国府へ向かう道でした。 また、鎌倉時代は「鎌倉往還」、江戸時代になり「鎌倉街道」と呼ばれ、鎌倉街道 上道の終着点は「板鼻」でした。そして善光寺道は一部東山道と重なる(板鼻から信濃東部のあいだ)。板鼻は東山道と鎌倉-善光寺道の分岐点でした。
中世の 『山名宿』 復元図

古八幡:現在の山名八幡宮の東約1㎞のところに、「古八幡」という字名がある。
中洲(島):鏑川と鮎川が合流しその分流が「古八幡」の周囲を巡る独特な地形で川に囲まれている。
西浦:山名宿を囲むように巡る川は、舟を引き込む目的で人工的につくられた可能性がある。
宿:「古八幡」の西北に「宿」の字名がある。
雲瀬:「古八幡」の南に「雲瀬」という字名がある。
応永18(1411)年4月5日の書状に「山名郷之内くもせのうなき在家」とある。
阿久津:「古八幡」の北の烏川沿いに「阿久津」という字名がある。
応永24(1417)年2月9日の源憲経の寄進状に「奉寄進田他事合二段者 右所在山名郷阿久津村舞台田者」とある。
道城:光台寺は、現在地に移る前は鏑川沿いの渡河地点に近い「道城」にあったと伝えられる。
山本宿:謡曲「鉢木」にでてくる「山本の里」とみられる。
当時、交通路の拠点には宿が成立しており、「宿」は文芸作品にだけでなく古文書にも表現されています。『山名宿』は鎌倉末期の小代伊重置文にみられ、南北朝初期には「宿在家(しゅくざいけ)」も確認されるので、鎌倉中期から宿とその在家が存在していたものと思われます。また他の史料では「くもせ在家」とあるが、宿も雲瀬(くもせ)も現地に小字名として残っている。山名郷の中に宿が生まれ、地名となったものである。宿には、旅人に泊まりを許す施設とともに、芸人や遊女、さらに商人・手工業者・高利貸しも集まっていた。それだけに混沌とした世界であり、宗教者の活躍する場でもあった(中世の『山名宿・山名八幡』は現在の山名八幡の東約1㎞の地点にあったと考えられています)。
小代伊重置文:建久4(1193)年4月、源頼朝が上野国三原ノ庄へ鷹狩りに訪れた際に、武蔵国の御家人 小代行平(こしろゆきひら)が遅れ、「上野国山名ノ宿」で追いついた、との記述がある。
在家:出家せずに普段の生活を営みながら仏道に帰依する者。在家信者の男性は優婆塞(うばそく)、女性は優婆夷(うばい)と呼ぶ。在家信者は出家者に布施を行って功徳を積み、出家者から教えを受ける。
「在家」という地名は、県内のいたるところにあり、中には、二軒とか四軒とかの軒数をあげているものもある。在家とは、荘園内の下層の農耕民のことであったろう。その土地が家々とともに一括して譲渡あるいは売買の対象とされているので、その範囲が地名となり易かったのであろう。(続・地名のはなし)
『山名宿』の推定地 (高崎市木部町堀之内)

謡曲「鉢木」
ある旅の僧が佐野の渡しで雪にあった。日は高く夕暮れには間があるが、あまりの大雪なので宿を借りようとした。ある家を訪れると、この僧は、やがて帰宅した主人に一夜の宿を願った。主人はあまりに貧しく泊めることができない、近くに『山本の里』があるから、そちらに行けば泊まれます、とすすめた。だがあまりの大雪なので宿を提供することとなり、主人は旅僧に鉢植えの梅松桜を切り焚いてもてなした、という。有名な謡曲「鉢木(はちのき)」の佐野の渡しの場面である。この旅の僧こそは北条時頼(ほうじょうときより)であり、北条家得宗(とくそう)の地位にあった。貧しい家の主人は佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)であり、のちの緊急時に鎌倉に馳せ参じ、北条時頼から梅松桜にちなんだ地名の所領があたえられるという筋書きとなっている。
この物語の舞台は、高崎市下佐野の近くと物語上いわれている。『山本の里』も山名郷の山裾深くにある『山本宿』とみられる (下佐野から山本宿までの距離も物語上の18町と合致する)。
18町=約2㎞(1町=109.09m)
北条時頼 [生]安貞1(1227)年. [没]弘長3(1263)年. 鎌倉幕府の5代執権 (在職 1246~56)
得宗(とくそう):執権からしりぞいていても権勢を持ち続けている者。
『山本宿』 手前の石室の中には、鎌倉時代の画像板碑がある。 (高崎市山名町山ノ上)
参考図書:「群馬県の歴史」
参考:現在の南八幡地区の小字名
