石碑・頌徳碑 №4
 万葉集 東歌(あづまうた)  
 
南八幡地域 入野丘陵を南側より望む。(丘陵北側に山ノ上碑がある)
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  万葉集は、わが国最古の歌集で20巻から成る。舒明(じょめい)天皇時代(629641)から天平宝字3(759)年までの約4500首から成り、大伴家持の編集ともいわれる。東歌(あずまうた)、防人(さきもり)歌などがある。東国は遠江から陸奥まであるが、国別では上野国の相聞歌が最も多く22首、ついで相模国12首、常陸国10首、武蔵国9首などとなっている。上野国22首のうち、伊香保関係9首、多胡・佐野関係が5首、安蘇新田関係の4首が主なものです。以下、多胡・佐野関係の歌を記載してみます。       
 万葉集巻十四は、すべて東歌として総括されている。その目録からみると、東海道は遠江(とおとおみ「静岡県西部地方」)以東、東山道は信濃(長野県)以東の諸国の歌を雑歌(ぞうか「種々雑多な歌」)・相聞歌(そうもんか「恋の歌」)・比喩歌(ひゆか「たとえうた」)に分けて納め、次に未勘国の歌も同じ三種類に分類収録している。未勘国の歌の中には、防人歌や挽歌(ばんか「悲しみを歌った歌」)をも納めている。東歌230首の中に、上野国相聞従来歌22首、比喩歌3首が収録されている。    
 
防人(さきもり)は、朝鮮半島での白村江(はくすきのえ) (663)の戦いに負けたために 664年に設けられた制度で、筑紫(ちくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)などの北九州の防衛にあたった兵士のことです。防人には東国の人が選ばれました。任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交代したそうです。東国から行くときは部領使(ぶりょうし)という役割の人が連れて行きますが、帰りは自費です。ですから、帰りたくても帰ることができない人がいました。また、無理して帰路についても、故郷の土地を見ること無く、途中で行き倒れとなる人もいたようです。
 
東歌編集の時期は明らかでないが、武蔵の国が東山道から東海道へ転属したのは、宝亀2(771)年であるから、それ以後である。      
                 
                          佐野の舟橋碑イメージ 5
(一)
     可美都気努 佐野之布奈波之 登里波奈之 於也波左久礼騰 和波左可流賀倍
                                     (3420
   
    『上毛野佐野の舟橋取り放し親は離(さ)くれど吾は離(さか)るがへ』
《大意》
 上毛野の佐野の船橋を取り放すが如く、親は間を離しても私は離れはいたしません。
 (佐野の舟橋がしばしば取り放されるのをみて、若い男女の間を遠ざける親の心のかたくなさを契機にして、一首の民謡として成立させたのであろう。)
 
「佐野の舟橋」と定家、家隆
「舟橋」は歌枕として、古来、しばしば使われてきている。「佐野の舟橋」を詠みこんだ歌と藤原定家と藤原家隆にまつわる神社が高崎市内に二カ所あります。
 
                          定 家 神 社  (ていかじんじゃ)
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「定家神社」 高崎市下佐野町の上越新幹線の西側にあり、境内には萬葉集東歌 未勘国歌(3473)の歌碑が建っている。藤原定家(11581237)を祀る。
 
 藤原定家(ふじわらていか)の歌
     「東路の佐野の船橋さのみやはつらき心をけてたのまん」   
     「恋わたる佐野の船橋かけた急てひとやりならぬねをのみそなく」 
 
                          家 隆 神 社  (かりゅうじんじゃ)  
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「家隆神社」 高崎市乗附町の荒久沢川の山寄りにある小社で藤原家隆(11581237)を祀る。
 
 藤原家隆(ふじわらいえたか)の歌
     「天の原月に漕出るこゝちしてしはしやすらふ佐野の船橋」  
     「ゆく人を思ひそわたる東路や霞かゝれる佐野の船橋」     
 
藤原定家と藤原家隆は高崎市歌川町あたりで歌を詠みあって分かれ、家隆は石船に乗って乗附へ渡ったという伝説があります。
 
                             佐野橋より山ノ上碑・金井沢碑のある南八幡方向を望む
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(二)万葉集 十四 東歌 未勘国歌 相聞 住来歌
    左努夜麻爾 宇都也乎能登之 等抱可騰母 禰毛等可兒呂賀 於母爾美要都留
                                                  (3473
   
    『佐野山に打つや斧音(おのと)の遠かども寝もとか子ろが面に見えつる』
《大意》
 佐野山に打つ斧の音の遠く聞こえるように、遠くにいるが、共に寝ようというのか、妹の姿が面影にみえたことよ。
 
未勘国歌:特定の国に断定できないと編集者が「未」と分類したもの。
佐野山 :上毛野国と明定していないので、佐野の地からみた烏川右岸の嶺とは特定できない。
 
 
                                  定家神社の佐野山碑            南八幡の佐野山碑           
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 (三)
    安我古非波 麻左香毛可奈思 久佐麻久良 多胡能伊利野乃 於久母可奈思母
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    『吾が恋はまさかも悲し草枕多胡(たご)の入野(いりの)のおくも悲しも』
《大意》
私の恋は現在も今も悲しい。クサマクラ(枕詞)多胡の入野の如く、遠い先も悲しいことである。
 (「まさか」(現在)と、「おく」(未来)の対句がつかわれ、調子の整ったすがすがしい歌である。)
                  高崎自然歩道 石碑の路 「マップ4番」 の石碑 
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(四)
     可美都気野 左野乃九久多知 乎里波夜志 安礼波麻多牟恵 許登之許受登母
                                                 (3406
  
    『上毛野佐野の莖立(くくたち)折りはやし吾は待たむえ來としとも』
《大意》
上毛野の佐野の莖立を折りもし、また生やしもするように私は待ちましょう。来ても来なくても。
                                     高崎自然歩道 石碑の路 「マップ25番」 の石碑    
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(五)
    多胡能禰爾 與西都奈波偣弓 與須礼騰毛 阿爾久夜斯豆之 曾能可抱與吉爾
                                                  (3411
  
    『多胡の嶺に寄綱延(は)えて寄すれどもあにくやしづしその顔よきに』
《大意》
多胡の嶺に、寄綱を伸しかけて引き寄せるけれども、何と来ることが遅いよ。その顔が美しいので。
 
(六)
    可美都気努 佐野田能奈倍能 武良奈倍爾 許登波佐太米都 伊麻波伊可爾世母
                                                   (3418
  
   『上毛野佐野田(さのた)の苗の占苗(むらなえ)に事は定めつ今は如何にせも』
《大意》
上毛野の佐野の田の苗の如く、占いに事は極めてしまった。今更何とも変えようもありません。
 (求婚に応諾して後の、なお動揺する気持ちに対する詠嘆(えいたん「感じはかること」)を詠んだもの。
:「読みくだし」と「大意」については主として土屋文明「萬葉集上野國歌私注」を参照した。
 
                                            参考: 「高崎市史資料編」