伝説・民話等 №2
木部駿河守範虎愛用の鞍(伝)    
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戦国時代の武将である木部駿河守範虎(きべするがのかみのりとら)が愛用した「鞍」とのいい伝えがあるものがあります。この「鞍」は高崎市木部町の区長が代々引き継いで保管していたが、木部町公民館が新築されてからは公民館に保存されています。
 
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【木部氏】
源頼朝の弟、範頼の孫吉見二郎義世の子孫で石見国(島根県)木部庄に住み、木部氏と言う。範次の女が古河公方成氏の妻に配した縁で範次の子範虎は関東に下り、長野氏に従い、後に武田氏に仕え天目山の戦いに桔梗が原に戦死、年72歳。子貞朝は武州忍城にあり滝川一益に属し、後に北条氏に従い高野山に入り、天正20年11月4日大阪にて没した。
【木部駿河守範虎】 
木部城主木部家詮(いえあき)は勢力ある上杉定正(扇谷)になびき、平井城主上杉顕定(山内)に嫌われてその家臣に攻められて、越後に出奔して後に越前の永平寺で没した。その子孫、範次は文亀3年(1503)木部村に帰り、軍功を立て名を現わしたが、永正14年(1517)に没した。その子が範虎である。成長して駿河守といい、長野信濃守業政に従い、その雄将として誉れが高く、その女を妻に得た。子を貞朝という。長野氏滅亡後、範虎は木部五十騎を率い甲州(山梨県)に入り所々の戦に功を立て、天目山に武田勝頼に殉じた(天正10年3月11日)定朝は武田氏滅亡後、北条氏に従って運命を共にし、天正18年(1591)木部城は廃せられた。
 
木部駿河守範虎愛用の鞍を説明して頂いた木部町区長の田口さん
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【木部城】
高崎市木部町にあった囲郭二重造の平城で、現在はほとんどその痕跡を止めないが、明治40年測図、二万分の一地形図には、本丸に巡らされた土囲が明らかに示されている。城域は一辺がほぼ150mの正方形で、北側は鏑川の旧河跡、他の三面に外濠があった。本丸は現在「堀の内」の名が残り、一辺60mの正方形で、吉井陣屋の修築の際、二回にわたり10年間吉井陣屋が置かれたことがある。文明10年(1478)以後、平井上杉氏に属する木部氏が築城し、箕輪城長野氏と興亡をともにしたことは有名である。
 
【木部北城】
阿久津町玄頂寺のあるところを北城という。木部城の支城であった。
【長野姫伝説】
永禄6年(1563)2月武田信玄が大軍を率いて箕輪城を攻める時、長野勢はよく防戦したがついに破られた。木部親子は城中にあったが、二十余騎と共に夜陰に乗じて、摺臼峠を越え、下野の喜連川に落ちて行こうと、女子供を引き連れてやっと沼の原まで出たが、ここで敵軍に出合い苦境に陥った。範虎の妻長野姫は、武門の恥をさらすまいと覚悟を定め、榛名湖に身を投げて自殺し、侍女の久屋もこれに従って殉じた。湖畔に霊を祭る木部神社(御沼龗神社)と、龍体院殿白山貞性大姉、久屋妙昌信女の石塔がある。12月27日上州緑野郡木部村と刻んである。
                                                『多野藤岡地方誌・各説編』より