上野三碑 №6
日本最古級の石碑               
高崎市街地から烏川の対岸にみえる岩野谷 (観音山) 丘陵は、緑豊かな里山である。丘陵東端部の山名町、柳沢川の谷が深く刻まれた頂には、古くは山本宿といわれた静かな隠れ里が現れます。
そこから百段以上の石段を登ると、陽当たりのよい南斜面に国指定特別史跡「山ノ上碑及び山ノ上古墳」が姿を現します。さらに、山上碑から丘陵の尾根づたいに約3㎞西方に進むと金井沢川のほとりに国指定特別史跡「金井沢碑」が現れます。
 
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 本の遺跡のうち重要なものを国の史跡に指定するが、史跡のなかでも特に価値が高く,日本の文化 の象徴であるものして選び抜かれた存在が国指定の特別史跡です。また、特別史跡はその地域に与えられるもので,仏像などの物に与えられる「国宝」に相当するものです。この特別史跡2件南八幡地域に存在しています。
尚、平安時代以前の古代の石碑は、国内18例しか存在しません。うち2例南八幡に存在することは、実に驚くべきことです。往時、当時の文化度がいかに高かったかがしのばれます。
         参考図書「若狭徹著:高崎千年物語」 
 
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 山ノ上碑 (681年)
  山ノ上碑(やまのうえひ)は、仏門に入った息子が、母の為に佐野の三家(屯倉)の血筋を引く(母と自分の系図)を記した、漢字53字を4行におさめた石碑です。 
 
輝石安山岩(きせきあんざんがん)に楷書体の丸彫りで彫られている
 
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[読み方] (テニヲハと句読点を挿入) 
辛己歳(かのとみのとし)(じゆうがつ)三日に記(みっかしる)す。
佐野三家(さののみやけ)定賜(さだめたま)える健守命(たけもりのみこと)の孫(まご)の黒売刀自(くろめとじ)、(これ)新川臣(にっかわのおみ)の児(こ)の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫(まご)の大児臣(おおごのおみ)に(とつ)ぎて生(う)める児(こ)長利僧(ちょうりのほうし)、母の為に記(しる)し定むる文也(ふみなり)。    放光寺僧(ほうこうじのそう)
 
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健守命は、佐野屯倉の現地管理者となった豪族で、黒売刀自はその子孫にあたる姫君である。黒売刀自は、赤城山南麓の豪族と推定される大児臣と結婚し、子を成した。その子は成長して放光寺の僧の長利となり、亡き母の顕彰のため、この碑を刻ませたのである。
 
法光寺は、前橋市総社町山王廃寺だと推定されている。当時の寺院は、学問や技術の殿堂であり、今日の大学に相当するものだった。長利はいわば名門大学の教授であり、中央で学問を修めてきた相当の知識人だったと思われる。
 
山ノ上古墳 は、碑との関係から、ここに黒売刀自が葬られたことは疑いなかろう。しかし古墳の築造年代が碑よりも数十年古いことを考古学者の白石太一郎氏は「古墳は先に黒売刀自の父の墓として築かれたもので、刀自は死後、夫の墓でなく実家の父の墓に葬られた」とそのタイムラグを説明する。
このような婚出した女性を死後に実家の墓に戻す行為を「帰葬」というが、夫婦を一緒に葬る現代と、当時の埋葬習慣はずいぶんと違っていたことになる。九州大学の田中良之氏によると、西日本では6世紀中頃から夫婦合葬がはじまるという。しかし東国では「帰葬」という古い習慣が続いていたことになる。 
 
【古墳と山ノ上碑】
 現在古墳の西側に隣接して山ノ上碑がある。碑が本来的にこの場所にあった可能性は、最近の整備工事の際の調査で否定的となったが、だからといって古墳の近くに置かれていたことが否定されたわけではない。むしろ、このように切り立った丘陵の上まで後世に運び上げられたと考える方が不自然であり、古墳と一体のものと考える方が妥当といえよう。  
(新編 高崎市史 資料編1より)
 山ノ上古墳
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            山ノ上古墳をモデルに山ノ上西古墳 が築造され、両墳は2世代にわたる前後の関係と捉えられる。
                 【国指定特別史跡】山ノ上碑及び古墳
 
指定種別
国指定特別史跡
名称
山ノ上碑及び古墳(やまのうえひおよびこふん)
指定年月日
昭和29320日(史跡指定 大正1033日)
所在地
高崎市山名町(字山神谷)2104
地図(地図情報システム)
 
 
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金井沢碑 (726年)
 
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金井沢碑は山ノ上碑から3㎞西方の金井沢川のほとり、覆屋の中に保管されている。佐野の屯倉の子孫が祖先の菩提のために仏に供養した旨が記してあり高さ1m強の自然石製に、漢字112字が刻まれ9行におさめられている。
輝石安山岩(きせきあんざんがん)に楷書体で丸彫りで彫られている
 
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 【読み方】 
 上野国(こうずけのくに)群馬郡(くるまのこおり)下賛郷(しもさぬごう)高田里(たかださと)の三家子(みやけの子が、七世(しちせい)父母と現在(げんざい)父母の為に、現在侍(げんざいはべ)る家刀自(いえとじ)の他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、又児(また、こ)の加那刀自(かなとじ)、孫の物部君午足(もののべのきみうまたり)、(つぎ)に[馬爪]刀自(ひづめとじ)、(つぎ)に若[馬爪]刀自(わかひづめとじ)の合わせ六口(むたり)、又知識(また、ちしき)を結びし所の人、三家毛人(みやけのえみし)、(つぎ)に知万呂(ちまろ)、鍛師(かぬち)の礒部君身麻呂(いそべのきみみまろ)の合わせて三口(みたり)、(かく)の如く知識(ちしき)を結び而(しこう)して天地(あめつち)に誓願(せいがん)し仕(つか)え奉(たてまつ)る石文(いしぶみ) 
 
                                                      神亀(じんき)三年丙寅(ひのえとら)二月廿九日
 
                                                                                                                         「三家子については、三家の子孫とする説と人名とする説がある。後者の説(勝浦令子「金井沢碑を読む」『東国石文の古代史』吉川弘文館、1999年)が有力である。
 
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最も古い「群馬」の文字を刻んだ金井沢の碑。この碑は、国内に16例しか現存しない古代碑としても重要な存在だ。碑文の112字には欠字があり、さまざまな読み方が示されているが、最も新しい説によれば、大意は「上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子(は欠字)らが仏教の知識によって七世父母のために誓願した碑」という祖先の仏教供養碑である。
 施主である三家子という人物は、佐野三家を支配した豪族の末裔であるため「三家」の姓を名乗ったとみられ、先の長利から数えて二~三代後の子孫となろう。碑文からは、彼ら一族が古墳時代後期から奈良時代に至るまで、地元にながく勢力を張っていたことが確認できる。
 碑文には、施主で家長である三家子を含めて関係者九人が名を連ねており、家を束ねる女性(家刀自)である他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、その娘である加那刀自(かなとじ)をはじめ、○○刀自と称する女性四人、ほかに物部君午足(ものべのきみうまたり)三家毛人(みやけのえみし)知万呂(ちまろ)鍛師礒部君身麻呂(かぬちいそべのきみみまろ)など男性四人の名がみえる。古代女性の社会的立場は高く、同族を結束させることに重い役目を果たしていた。
  
 九人は、碑を立てた願主の血族六人と、それに加わった縁者三人の二グループに分かれる。
 第一グループは、願主であり三家氏の家長である三家子その妻で三家氏の家刀自をつとめる他田君目頬刀自その娘の加那刀自加那刀自の息子の物部君午足、午足の姉妹である馬爪刀自(ひづめとじ)⑥若刀自(わかひづめとじ)の六人である。三家氏は、高崎地域に存在したヤマト政権の直轄地・佐野三家(屯倉)を代々治めてきた当地きっての名族である。子はその三家氏一門の族長。他田君目頬刀自()は、近隣の豪族他田氏から三家氏に嫁いだ女性。「君」は有力豪族が朝廷から賜った姓(かばね)だから、彼女の実家も名門であった。そして結婚後は三家の、家刀自として重きをなしつつも、「他田君」という実家の氏を冠して呼ばれていたのである。の間に生まれた娘が加那刀自()である。その息子の午足()物部君を冠しているので、加那刀自は物部氏に嫁ぎ午足・馬爪刀自()馬爪刀自()を生んだのである。この場合の物部氏は、ヤマト地域の大豪族物部氏とのコネクションで氏名(うじな)を得た地方豪族(高崎~富岡氏域に勢力)である。加那刀自もまた物部家においては、三家加那刀自と呼ばれていたはずだ。
このように、短い碑文からは、妻は夫方に暮らしていた可能性が高いこと、妻は実家の氏姓を冠して呼ばれたこと、生まれた子は父方の氏を名乗ったこと、他家に嫁いだ娘とその子が実家の祖先祭に参加していること、などが読み取れる。古代から女性と実家との絆は相当深かったようです。
 一方、第二グループは第一グループと仏教儀礼によって結びついた人々で、供養する先祖を同じくする親族たちである。⑦三家毛人⑧(その兄弟の) 知万呂⑨鍛師礒部君身麻呂の三人の名があるが、は願主と同じ三家氏一門である。の礒部君身麻呂は、鉄器の生産加工にかかわる職(鍛師)にある礒部氏の人物で、安中市磯部の一帯に根を張った有力豪族だと推定される。
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                      上毛野国主要豪族分布図
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 西毛(群馬県西部)一帯には武器、武具を制作、管理する物部部族がいた。もちろん上毛野君の支配下にあり、一族の長は上毛野君と同族であった。物部部族はしだいに分派し、六世紀には物部(もののべ)石上部(いそのかみべ)礒部(いそべ)に別れた。これはケンカ別れでなく開墾が進んだりして広い地域を支配しなくてはならなくなったためである。長い間、上毛野君の一族を長とする物部部族の支配体制は崩れることなく続いた。文献などから判断すると、分派したあとの各家柄は、物部が旧高崎市一帯、石上部が旧碓氷郡、礒部が旧安中市周辺を支配したと思わる。高崎市山名町にある金井沢碑に物部、礒部の名が見え、続日本紀には天平神護元年(765)にともに物部公という姓を賜ったと記されている。                「上毛野国―忘れられた古代史」 岡島成行著 
 
 
 【国指定特別史跡】 金井沢碑   
 
指定種別
国指定特別史跡
名称
金井沢碑(かないざわひ)
指定年月日
昭和29320日(史跡指定 大正1033日)
所在地
高崎市山名町(金井沢)2334
地図(地図情報システム)