山名という地名のなりたち
 
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  岩野谷(観音山)丘陵の端に山名という地はあります。丘の先端には山名八幡宮が鎮座し、この八幡宮は鎌倉、室町の両時代を通じて有名な山名氏のまつったものといわれている。山名氏発祥の地というのである。山名氏は新田義重(よししげ)の庶子義範(よしのり)が山名に置かれてから起こっている。義重は義範の兄義俊(よしとし)を片岡郡の里見に置き、里見と山名の中間片岡の館に自分が住んでいた。しかし、義俊の子義成(よしなり)も義範も頼朝にとりいって重く用いられていたが、義重はやや孤立化していたようだ。
 
 山名は「続日本紀」によると、和銅四年(711)の多胡郡の新設のころは、「山等」と記してある。「山那」、「山奈」、「山名」ともかく。「山等」は「やまら」とよめるし、他はいずれも「やまな」である。「山等」と書いたのは、朝鮮半島南部から来た人の手によったものであろう。その地ではn音をr音に記している。韓(かん)を伽羅とかき、辰(しん)を新蘆と書いている。「やまな」とかくつもりで、「山等」と書いているのである。
 さて、「やまな」とはというのはどういう意味であろうか。これは「やまのは」であろう。「やまのは」はすなわち「山の端」であり、丘の先端である。「やまのは」がつまって「やまな」となったものであろう。「やまのは」は特に重要視されたものと見える。古代の神社はそのようなところに祀られているものが多い。山の端でもあろうが、山の先でもある。
 
  「山名」「佐野」の「ナ」や「サ」は接辞(言葉の前や後にくっついて言葉の意味を変化させたり補ったりする言葉)であって「山」「野」がもともとの意味で、この丘陵地帯にふさわしい名といえる。
                   
 佐野三家 (さののみやけ)        
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 今から1400年以上の昔々(推定47代前.・ご祖先様の時代ごろ)、佐野三家((607~689?)年)は高崎市上佐野町、下佐野町、倉賀野町、根小屋町、山名町一帯を支配していた。近くには、西北に石上部君(いそのかみべのきみ)、東に佐味君(さみのきみ)、南に緑野屯倉(みどのみやけ)、西南に朝鮮系の人々、北に物部君(ものべのきみ)、東北に朝倉君(あさくらのきみ)がいたようである。佐野三家(さののみやけ)は、金井沢碑にみられるとおり物部君、礒部君(いそべのきみ)と同族としていたので物部を統率した家柄のようでもあるが、すぐ隣には佐味君、朝倉君などがいるため、断言はできない。在来豪族として屯倉(みやけ)設置の際、その支配地を提供して管理者となったかもしれない。しかし佐野君(さののきみ)とは称していないところをみると上毛野君(かみつけのきみ)一族ではなかった可能性もある。山名町の山上古墳は佐野三家のものと考えてよいだろう。現在こそ倉賀野町と山名町は烏川(からすがわ)で分断されているが、昔は烏川が倉賀野町の北を通っていたらしい。利根川も色々と流れを変えており、その痕跡が各所にあるが、同じような跡が烏川についてもいえるのである。ただし、山上古墳を含む山名町一帯は和銅四年(711)には多胡郡に入れられたため、以後は朝鮮系の人々の支配地となる。山名の地は山上碑建立(681)ごろは佐野三家の支配地であったが、689年ごろの郡制の施行によって片岡郡に入れられ、711年多胡郡に編入されたということであろう。   
 
  佐野の三家の人々は文化人であったらしい。天皇の御料地(屯倉)となったので、都との関係がついて仏教も入り、すでに七世紀の中頃には放光寺という寺の僧侶もでていた。やがて、また、八世紀に入ると九人も仏教信者が一族からでている。
 
 三家(みやけ)屯倉(みやけ)と同じ:古代の大和王権の直轄地。佐野はその管理者が支配していた。
 大化の改新(646年)により屯倉制度は廃止されるが、実体は689年頃まで続いていたと思われる。
イメージ 5祖先の数広辞苑による『ほぼ30年をひとくぎりとした年齢層』で計算した。 人間には必ず両親がいる。そこで祖先の数は「2のN乗=祖先の数」となります。例えば、5世代遡ると、2の5乗で32人の祖先の数、10世代で1024人、20世代で100万人、30世代で10億人、40世代で1兆9百万人、1500年前に遡ると50世代なので1125兆8599億人の祖先の数となりますが…如何⁉
イメージ 5参考図書: 「尾崎喜左雄著:群馬の地名(上巻)」「 岡島成行著:上毛野国―忘れられた古代史」
    
岩野谷(観音山)丘陵を中心とするなりたち
 
A 3~4世紀 弥生時代後期~古墳前期    B 5世紀 古墳時代中期     
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 C 6世紀 古墳時代後期        D 7世紀 切石積終末期古墳・古碑・古窯
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  『岩野谷丘陵』:昭和26年発行の矢嶋仁吉著「群馬県新誌」に岩野谷丘陵とある。これは丘陵中央部の村名をとったものであろう。それ以前、昭和9年の「上毛大観」(群馬県編)では、群馬県内の西部丘陵中の中部丘陵と位置づけている。観音山丘陵と言う名称は、そこに清水寺のある観音山があるからで、これがしだいに口承でそうなったようである。観音山丘陵は、とうぜん岩野谷丘陵の範囲内である。 
 「参考:寺尾町館の民族」