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 近隣の名所・伝説 №2
近隣の伝説「七輿山伝説」のお話イメージ 6 (722年頃の奈良時代、今から1291年前頃)  
                                     曹洞宗七輿山宗永寺 住職 清 章司
                                                     
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奈良に都があったころ 多胡族、小幡羊太夫宗勝の家来に 神通力を持ち、走るのが速い
八束小脛という男がいた。 小脛は 馬の手綱を引き 空を飛ぶように走った。
都まで約二時間で、毎日新鮮なセリを朝廷に献上した。
こうして羊太夫は、朝廷の帝より誉められ 多胡郡の長官に出世し 八束山に城を構えた。
ある暑い夏の日 羊太夫は昼寝をしている小脛の 脇の下にトンビのような白い羽が左右一本づつ有るのに気づいて「速く走れるのはこのためか」といたずら心で大切な羽を引き抜いてしまった。
すると小脛は神通力を失い。羊太夫の馬は都に行くことが出来なくなった。 朝廷は 急に羊太夫から貢物が来なくなった為 謀反と思い込み 征伐隊を向かわせた。
羊太夫は、戦いに敗れ 秩父山中へ逃げた。
落城に際して、羊太夫は 家人の中尾源太宗永に命じて 夫人と腰元ら七人を七つの輿で落延びさせた。七人の女性達は 中尾源太に守られて 城を抜け出し 東へ急いだが 女性のことなので
足取りも遅く追手に追いつかれた。
中尾源太は一行を先にやり 自分は踏みとどまって 防戦した。
その後、七人の後を追って 鮎川のほとりで 一行と落ち合ったが 七人は「もはやこれまで」と自害した。
中尾源太も傍らにあった仏堂の僧侶に 後のことを頼んで、自害した。
僧侶は 七人の女性と中尾源太の冥福をいのって読経した。
村人達は塚を築いて 七人を七つの輿に納め葬った。その塚を七輿山という。
村人達は 中尾源太宗永を開基として庵を建てたが その後 この庵が焼失したことにより
上落合と吉井郡を領有し代官所であった 堀越公一郎氏先祖宗延氏が開基となり
石室関梁和尚を開山して 現在の宗永寺の伽藍として 末永く一行の菩提を弔っているそうです。
  
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 七輿山古墳イメージ 8   藤岡市上落合831-1  国指定史跡                        
 
  七輿山古墳は6世紀前半(534年頃、今から1479年前)につくられた、3段築造の前方後円墳で太田天神山・高崎浅間山に次いで県内第3の規模を誇る古墳です。全長146m、後円部径87m、前方部幅108m、前方部と後円部の高さ16m。この様な前方後円墳という墳型は、中央政権(大和政権)から承認されたものであった。たとえ大型の古墳を築造できるだけの支配力・経済力があっても、中央政権から承認されなければ築造できなかったと考えられ、被葬者は上毛野氏の親族若しくは大和王権から緑野屯倉の統括者として派遣された当時の豪族と思慮されます。
 
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  羊太夫についてイメージ 9
 「多胡碑」に『和銅四年(711年、今から1302年前)三月九日甲寅。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の中から300戸を分けて新たに多胡郡をつくり羊に支配を任せる。』と記載されているとは、東山道上野国多胡郡八束山(高崎市吉井町多胡地区)城主の八束羊太夫宗勝のことをいいます。宗勝は天児屋根命の子孫、大職冠藤原鎌足の五代の孫、藤原将監勝定の嫡男で羊の日の刻に生まれたので、羊太夫と命名されました。
 羊太夫は生まれつき通常人と異なる相を備え、成長するに従い才知にすぐれ、七歳の時から弓馬の道を習い、文武両道に達する若者で、身長七尺五寸(2.3m)、眼光は鋭く人を射るようで、上野の国で二十万戸を領し多くの一族を養い、仁義の道を教えて領民もよくなついていたそうです。しかし、第四十四代元正天皇(715年~724年)の頃、羊太夫に謀反の計画があるとの報があり、養老五年(722年、今から1291年前)正月二十一日に十万余騎の羊太夫討伐軍が東山道を下ってきた。養老五年十一月二十二日に羊太夫の八束城は包囲され、羊太夫は中尾源太宗永に奥方、若君、お供の女数名を脱出させ羊太夫は自害しました。脱出した中尾源太宗永と奥方達も、追手に追いつかれ落合村で寺の老僧に若君を預けて、奥方と6人の女房達はその場所で自害をしました。
 やがて老僧は,七つの輿に自害した奥方たちの亡骸を収め葬ったので、この山を七輿山と名付けたのだそうです。また、老僧は寺を造営して、宗永を開基、七輿を山号として、七輿山宗永寺と名付けられました。
                    【参考図書】 南八幡公民館図書室所蔵文庫  「上落合ふるさと史 あゆみ」
 
                          平成25年12月22日上毛新聞
 
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多胡碑について:7月3日号ブログ「多胡碑を参照
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