上毛三碑 №1
 上野三碑 (こうずけさんひ)                                                          
1 上毛の古代文化
 上毛の地は、北からアイヌ系の民族集団が南下して来たと言われている一方で岩宿遺跡のような旧石器時代からの先住民族や、西からの「渡来人」集団が北上してきた地域であった。
 食糧生産の上では、上毛の地は利根川や他の河川を利用することが出来たので、「稲作文化」がかなり早い時期から行われて来たことがうかがいしれ、北進集団と南下集団がお互いに生活の技術を交換しながら平和的に共存していたこどが付近の古墳から発掘された出土品からうかがえる。また、この地方を支配していた豪族はすでに権威の象徴である大小の古墳を造る技術と資金力を備えていた上毛の実力者であったと思われる。
 古くから稲作と鉄器の技術を持った集団が上毛に定住し、この地を支配し古代の上毛は発展していたものと推定されています。
 
 
2 上毛と文字の伝来
 日本書紀によると安閑天皇2年(535年)に朝廷の直轄領地である「屯倉」(みやけ)が緑野屯倉、佐野屯倉として設置されたと記録されている。このことは、大和朝廷の支配が古代東国まで及んでいたことを表している。
 古墳では6世紀後半の七輿古墳、七世紀頃の南八幡地区の大小70余りの古墳群、「山ノ上古墳と古碑」「金井沢碑」「多胡碑」が存在し、文字がこの地に早くから伝来していた事実を表しています。
 
 
 上 野 三 碑
 上野三碑の碑文には、古墳から仏教への思想的な流れ、庶民レベルの生活と信仰、中央政府と地域の関係、渡来人とその文化の定着の様子など実に豊かな内容が記されています。
 
(ア) 山ノ上碑 (681年)は、仏門に入った息子が、母の為に佐野の三家(屯倉)の血筋を引く(母と自分の系図)を記した、漢字53字を4行におさめた碑です。
      
 
       所在地:高崎市山名町(字山神谷)2104
 
       1954年(昭和29年)国指定特別史跡
 
                    1、碑身・台石ともに輝石安山岩の自然石。
                    2、高さ約1.1m、幅約0.47m、厚さ約0.52m

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[読み方] (テニヲハと句読点を挿入)
辛己歳(かのとみのとし)(じゆうがつ)三日に記(みっかにしる)す。
佐野三家(さののみやけ)定賜(さだめたま)える健守命(たけもりのみこと)の孫(まご)の黒売刀自(くろめとじ)、(こ)新川臣(にっかわのおみ)の児(こ)の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫(まご)の大児臣(おおごのおみ)(とつ)ぎて生める児(こ)長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記(しる)し定むる文也(ふみなり)。 放光寺僧(ほうこうじのそう)
 
[現代語訳]
 辛巳年(天武天皇十年=西暦681年)十月三日に記す。
 佐野屯倉をお定めになった健守命の子孫の黑売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である
 大児臣に嫁いで生まれた子である(わたくしの)長利僧が、母(黑売刀自)の為に記し定めた文である。
 放光寺の僧。
 
[用語の意味]
 刀自=女性の尊称、  足尼=男性の尊称、  放光寺=前橋市総社町に7世紀後半頃創建された寺院
 
 
(イ) 金井沢碑 (726年)は、佐野の屯倉の子孫が祖先の菩提のために仏に供養した旨が記してあり、112文字が9行におさめられている碑です。
            
 
        所在地:高崎市山名町(金井沢)2334
      
       1954年(昭和29年)国指定特別史跡
 
                      1、碑身・台石ともに輝石安山岩からなる。
                      2、高さ1.1m、幅約0.7m、厚さ約0.65m
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 【読み方】 
 上野国(こうずけのくに)群馬郡(くるまのこおり)下賛郷(しもさのごう)高田里(たかださと)の三家子(みやけの、七世(しちせい)父母と現在(げんざい)父母の為に、現在侍(げんざいはべ)る家刀自(いえとじ)の他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、又児(また、こ)の加那刀自(かなとじ)、孫の物部君午足(ものべのきみうまたり)、(つぎ)に[馬爪]刀自(ひづめとじ)、(つぎ)に若[馬爪]刀自(わかひづめとじ)の合わせて六口(むたり)、又知識(また、ちしき)を結びし所の人、三家毛人(みやけのえみし)、(ついで)に知万呂(ちまろ)、鍛師(かぬち)の礒部君身麻呂(いそべのきみみまろ)の合わせて三口(みたり)、(かく)の如く知識(ちしき)を結び而(しこう)して天地(あめつち)に誓願(せいがん)し仕(つか)え奉(たてまつ)る石文(いしぶみ) 
                                                      神亀(じんき)三年丙寅(ひのえとら)二月廿九日
 
                                                                                                                  「三家子については、三家の子孫とする説と人名とする説がある。後者の説(勝浦令子「金井沢碑を読む」『東国石文の古代史』吉川弘文館、1999年)が有力である。
 
[現代語訳]
 上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子が(発願して)、祖先および父母の為に、ただいま家刀自(主婦) の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の[馬爪]刀自の合わせて六人、ま た既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて  三人が、このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。
 神亀(726年)三年丙寅二月二九日
 
[用語の意味] 
「上野国」:ほぼ今の群馬県。「群馬郡」:旧高崎市と旧群馬郡及び北群馬郡を含む。
「下賛郷」:高崎市上・下佐野町。「高田里」:上・下佐野どこか不明。
「三家子□」:従来は三家の子孫と読まれていたが、子を冠した人名、つまり三家子□(三家の子‥不明)と考えられている「為七世父母」:仏教用語で祖先のこと。
「現在父母」:仏教用語で生存している父母。
「現在侍家刀自」:仏教用語で生存している佐野三家の主婦「合六口」:合計で6人。
「知識所結人」:仏教の教えによって同心になった。「鍛師」:鍛冶師のこと。
「如是知識結而」:仏教用語でこのように仏教により同心になった。
「天地誓願」:天の神地の神にお願いして誓う。「仕奉石文」:誓いを書いた石文。
 家刀自=家を統括する女性の位。主婦、  知識=仏の教え、 
 
 訳
 金井沢の碑 は漢字112字の9行書きである。意味は「上野国群馬郡下賛(佐野)郷高田里の三家(佐野)の子孫、すなわち現在家を切り回している家刀自と他田君目頬刀自、その子の加那刀自、他田君目頬刀自の孫の物部君午足、ひずめ刀自、乙ひずめ刀自の合計六人、それに、すでに仏教に入信している三家(佐野)毛人、知万呂、鍛師である礒部君身麻呂の合計9人が仏教を信じ、7代の父母と現在の父母のために仏に仕えることを誓った碑文である。  
  
 
(ウ) 「多胡碑 (711年)は、上野の和銅4年3月に片岡、緑野、甘楽の3郡から新たに多胡郡を創るという開郡の記念碑であり、漢字80字を6行の石碑に彫った碑です。
                 
      
        所在地:高崎市吉井町池1085
 
        1954年(昭和29年)国指定特別史跡
 
                      1、上から笠石・碑身・台石からなる。
                      2、高さ1.26m、幅と厚さ約0.6m
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[読み方]  (多胡碑のアナウンス文より)
 弁官符(べんかんふ)す。上野國(こうずけのくに)片岡郡(かたおかのこおり)・緑野郡(みどののこおり)・甘良郡(からのこおり)(あわ)せて三郡(みつのこおり)の内、三百戸(さんびゃつこ)を郡(こおり)と成(な)し、羊(ひつじ)に給(たま)いて多胡郡(たごのこおり)と成せ。和銅(わどう)四年三月九日甲寅(きのえとら)に宣(の)る。左中弁(さちゅうべん)は・正五位下(しょうごいのげ)多治比真人(たじひのまひと)。太政官(だいじょうかん)は・二品穂積親王(にほん ほづみのみこ)、左太臣(さだいじん)は・正二位(しょうにい)石上尊(いそのかみのみこと)、右太臣(うだいじん)は・正二位(しょうにい)藤原尊(ふじわらのみこと)なり。
 
[現代語訳]
 朝廷の弁官局から命令があった。上野國の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡 を作り、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四年(711年)三月九日甲寅。左中弁・正五位下  多治比真人(三宅麻呂)による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣・正二位石上(石上朝臣麻呂)尊、右太臣正二位藤原 (藤原朝臣不比等)尊
 
[用語の意味]
 ・尊(みこと)=敬称  ・品位(ほんい)=皇族のみに与えられる。一品(いっぽん)、二品(にほん) 
 
藤原不比等は、中臣(なかとみの)鎌足の二男で、律令体制の基盤を作り上げた人物。中臣鎌足と妻・車持君国子の娘、与志古娘(よしこいらつめ)の間に生まれた。兄の定慧(じょうえ)と年が離れていて、天智天皇と与志古娘との間に生まれたという伝説がある。車持君は、上毛野君の一族で、群馬郡はもともと「くるま」郡で車持君につなかっていると考えられる。
 
多胡碑は、中央政府からの命令で上野国(こうずけのくに)の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡内から三百戸を割(さ)き、新たに多胡郡を建てたことを記念した建郡碑です。上記の読み方(東野治之氏の説)のように、建郡に際して「羊」という人物を郡司に起用したと解するのが主流ですが、『給羊』の「羊」を方位や別な字の略字とみなす説もあります。
 
【給羊】の諸説
①「羊」は半の誤りとみて、「郡と成し給い、半ばを多胡郡と成す」あるいは「郡と成し、半ばを給いて多胡郡と成す」と読む説。
②「羊」は群の略字で「給羊」を足しあつめる意とするが、群は郡に通じるから「郡と成し給い、郡を多胡郡と成す」とする説。
③羊をそのまま読む。
 a方向説(南南西)
 b羊を与えて飼育させるという説
 c人名とみて羊を初代郡司に任命した説(尾崎喜左雄)
 
 碑文の読み方は江戸時代から諸説あったが、尾崎喜左雄氏は「正倉院文書」の戸籍の中に羊(比都自または比津自)という人名が30数人分もあること、上野国分寺跡から「羊」とヘラ書きした瓦の破片がたくさん出ていること、「給某人」という言い方が文献に見えていること―などを統合して「給羊」を「羊という人に給す」と考えている。
 
【貴族の職位】
       天皇→左大臣→知太政官事→右大臣→大納言→中納言→参議
 
 八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した「真人( まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(お み)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度。