日本にいた頃、、22−23歳の頃の写真。東京は深川木場の材木屋で働いていたので。写真を撮る時も肩当てをしている。材木を担いでトラックに乗せるのが仕事だった。後はトラックに積んで、運転して建築現場や、他の材木屋に運んでいた。
いつも欲求不満のころだった。肉体労働はきつい割には月給は最低だった。
当時は日本の経済が良くなってきた60年代、カナダからの材木の輸入がどんどん増えていたので、オレもあの広いカナダかアラスカへ行って日本へ材木の輸出をする仕事がしたい。こんな木場で単純仕事をしていても、歳を食うだけだ。と悩んでいた。それでも、23歳の時にアクアラング(現在はスキューバ)を一緒にやって、水中銃で魚を追いかけていた友達が大学を1年で辞めてアメリカへ半年間旅行をして、日本に帰ってきた。彼が言うにはアメリカはいいぞ、、語学学校は無料のがあるし、夜レストランで働けば充分生活はできると言うではないか、いつでも海外に脱出する用意はしておいたので、彼の話があった半年後には、もうサンフランシスコで昼が語学学校で英語のお勉強、夜はレストランで皿を洗っていた。現在のように簡単に海外へは出られなかった。前にも書いたが一番安のは船でアメリカまで2週間かかった時代だった。ジャンボジェットなどまだない時代だった。
日本では高卒だったので、アメリカのカレッジで材木の仕事を将来やるために、フォレストリー(森林学)を専攻したが、卒業してアメリカでは大手のランバー(材木)会社に履歴書を送ったがどこも採用してくれなかった。そんなことで、趣味の延長でアラスカ、カナダ、USAのビッグゲーム ハンテングとメキシコのビッグゲーム フィッシイング ツアーの会社を始めたが、これもお客が来るのはくるがパラパラで商売にならず、その後誰でもできる 拳銃、ライフル 射撃ツアーがヒットした。多い年は年間3,000人以上が射撃ツアーに参加してくれた。この仕事を述べ20年半やった。
結婚したのもその頃で、彼女に合ったのは彼女が23歳で私め29歳の年でした。その頃は、単純に20代から30歳くらいまでなら、たぶん白人の女で、30歳も半ば頃までだったら、日本人になるかな? などと単純に考えていた。
2つとも外れて日系4世の女と一緒になった、喧嘩は絶えず今でもよくするが、離婚もせずに、、日系人も日本人も我慢強いのかしらん? ハハハ。
永住権もアメリカ市民と結婚したので取れた。彼女から貴方はビザが無いのだから、結婚した方がいいでしょう、、と言われたのが、、本当の話、でも悪友は、、あんたが泣いてオレ、ビザがないから結婚してくれと頼んだんだろうに、、などと酷いことを言っていたな。
みんな若かったな、左が私めのワイフで、右がワイフの妹、まだ学生だったな。
誰でも。青春はあるもんで、やりたいことはほぼ全部やったような気がするが、できたらもっと気の合った友達と世界を見てみたい。こちらに来て、カレッジで知り合った元海兵隊で自由人。彼と毎年のように最初の頃は金もないのでボロ車でメキシコのバハ半島。その後金もできデカイ アメリカのトラックを買い、キャンパーを乗せて毎年バハ半島でキャンプしたり、魚を釣っていた。
私めがリタイヤーした年に、彼と一緒にメキシコから、南に下り中南米まで行く予定だった。彼はテキサス州のサンアントニオに住んでいて、彼のトラックでサンフランシスコに向かった。その途中の何処かで、今でも原因は不明だが死んでしまった。ビッグ ショックだった。
あと、数年でも長生きしてくれたら、オレ達が長年計画していた旅が、だがその前に相棒が死んでしまった。享年68歳。
現在、アメリカに長年いる友だちも歳を食って元気もなく、せいぜい日本に遊びに帰るくらいで、私めもブログに書くネタもないので、昔話を時々書くようにしてます。