船で屋久島から種子島経由で指宿へ、知覧特攻平和会館へ。 | gozira hunterのブログ

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屋久島から九州の指宿へ、早いスピードの船で鉄砲伝来の島種子島経由をして、夕刻に指宿に着いて、この日はホテルに泊まった。

 

 

種子島は興味があった。なぜならばが以下の説明です。

 

 

私めのアメリカ人生においての仕事は最初から最後までの約40年近くが銃器を扱う仕事をやった

日本の景気が良くなった1970年代の中頃から海外旅行ブームが始まって、日本人が世界中を旅行するようになった。そこで射撃ツアーを考案して実行したのも私めが最初だった。1974年にゴールデン ウエスト スポーツツアー という会社をつくった。最初の頃はアメリカ、カナダ、アラスカでビッグゲームハンテングの案内、メキシコのカボ サンルーカスでビッグ マーリン フィッシングなどを案内した。その頃から射撃ツアーに人気が出てきた。日本には、こんなにもガンマニアがいるんだな〜と思った。当時は本格的に射撃ができるところがなく、日本全国からアメリカに射撃に来た。ありとあらゆる種類の拳銃、ライフルなどどんな銃をリクエストされてもいいように世界中の第2次世界大戦に使われた銃もほぼ揃えていた。その後一般の観光客や春の大学の卒業旅行などもわんさと参加してくれた。2月3月だけで数千人以上の学生の集客があった。

 

その後、ハイ ブリッジ アームス とう会社を設立、ガンショップを買取り、小売の他、銃の輸出入で日本を始めオーストラリアなどへ送った。アメリカ最大の銃のオークション会社とも話をつけて、世界中の銃愛好家が見ている銃のオークション サイト、ここで落とした銃を我社に送らせてアメリカから海外に発送する仕事も毎日のようにやっていた。輸入は日本の大手のガンデーラーから中古銃を安く仕入れて初めの80年代の頃はガンショーで売り、コンピュターの時代に入ってからは全米オークションに出したら面白いように売れた。なにしろこれはローカルのガンショーではなく全米の人が見ているのだから勝負は早い。多いときは年間1000丁以上売った。

 

そんなことで種子島は鉄砲伝来の島、ポルトガル人がこの島に漂着して、日本人に初めて銃の製造を教えたのだった。

 

ま〜次回に来島しよう。

 

 

指宿は砂風呂でも有名だったが、今回はここはたったの一泊だったので砂風呂には行かなかった。

 

 

ま〜日本のホテルも1万5千円くらい出すと上のような懐石風料理がたくさん出てきた。しかしコロナのせいか宿泊客は少なかった。

 

 

 

 

まえまえから行ってみたかった知覧特攻平和会館へ行くことにした。一緒に行った相棒は有名な砂風呂へ行きたかったようだが、時間がなかったので我慢してもらった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上の写真は外で撮ったもので、三角兵舎は敵の目に触れないように半地下に作られて、出撃前に特攻隊員はここで寝泊まりしていた。

 

 

 

 

高校生の団体も見学に訪れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下の写真2枚は会館内では撮影禁止だったのでパンフレットから撮った

 

 

 

 

 

おびただしい数の特攻隊員の遺書や遺影、写真が壁にずらりと並んでいる。一番若いのは17歳で出撃した特攻隊員もいたのだ。その数は2500人以上という。みんなお国のために勝利を信じて敵艦めがけて突っ込んで行ったのだろう、泣きたいのをぐっと我慢しながら1人で会館の中をウロウロしていた。外に出れば墓石がずらりと並んでいる。残酷の時代だったのだな、、この戦争はまだたった76年前の事なのだ。俺たちの親父の時代、、若者はお国のためにみんな戦争にいったのだ。未だ生存者も少ないけれど生きている。

 

 

現在ここ知覧はのどかな茶畑が美しく広がっている。特攻隊基地だった知覧の話を聞いてから、ずっとアメリカでもジャパンセンターに行けば売っている知覧の緑茶を毎日飲んでいる。このお茶はうまいです。