ソチミルコから帰ってきた夜プロレスを見に行くのだが、もう会場の周りは黒山の人だかり、乗って行ったタクシーがパーキングできない有様。タクシーに数時間待っていてもらう予定だった。
なんせこういった国はアンオルガナイズだから、前売り券があるのかどうか分からないが、とにかく人がごったがえして、チケットを買うどころの騒ぎではなかった。なんせメキシコシテーの観光ガイドにプロレスツアーが載っているのだ。そのくらい人気があるのだ。
アメリカでもテレビで時々やってはいるが、メキシコのプロレス人気は未だ衰えない。日本人レスラーも活躍しているのだ。上の写真は武蔵と奥村がやっていた。
もう、う〜〜〜〜〜と昔の話だが、昨年死んだプロレスラー マサ斎藤がアメリカで活躍していた1970年代、彼はサンフランシスコに住んでいた、このあたり周辺からリノ、ラスベガスなどで活躍して、こちらのテレビにいつも出ていた。この頃はアメリカもプロレスは大人気だった。マサ斎藤、ジャイアント馬場や日系レスラーのキンジ シブヤ、グレート フジ、グレート トーゴーなど日系はみんな悪役で、ファックユーを連発して、白人のレスラー相手に戦っていた。
マサ斎藤とオレの歳が同じくらいであったので、ここサンフランシスコのジムでウエイトトレーニングを一緒にやっていた。彼は体重は250ポンド(120キロ)、オレ143ポンド(65キロ)、ベンチプレスを一緒にやる、斎藤は200キロをやる、シャフトがしなる、オレのばんプレートをはずして120キロ、やったもんだった。なにしろ彼とは体重差が倍くらいあった。
プロレスラーはアメリカの白人女にもてるのだ。試合が終わった頃、控室の周りには金髪のグラマーがいつも4〜5人待っていて、よくデートしたそうだ、女に不自由はしなかった、と言っていた。トラブルもけっこうあったようだが、エンジョイしていた。そんな話をいつもやっていた。オイ オレにも金髪女を回してくれよ、、なんて言っては馬鹿ばなしをやって、わらっていた。斎藤が、オレに、そっちもメキシコへ行ってプロレスやれよ、あっちは覆面被って飛んだり跳ねたりしてりゃ〜いいんだ、、オレはメキシコでは身体がでかすぎる、なんて言っていた。65キロのプロレスラーがいるわけね〜だろうに。
彼は明治大学の学生の時、東京オリンピックが始まり、ライトヘビー級の日本代表となり、勝てると思っていたルーマニアの選手に4回戦で負けたそうな。
今の飽食の時代と違って身体のデカイ学生があましいなかった当時、プロレスの力道山道場に通い稽古をつけてもらい、そのまま卒業と同時にスカウトされて、プロになり、渡米した。
面白い偶然。80年代から90年代、我が社が射撃ツアーがいそがしい頃、ツアーに参加した日本の大学生と話をしてたら、プロレスの話がでた。そしたらその学生が、オレたちマサ斎藤のお姉さんに学校で数学を教わったといっていた。え〜〜〜オレの姉さんも数学の先生やっていたよ、、。面白い偶然だった。オレの姉さんも東京理科大学の数学専攻で、卒業後、数学の先生になり、退職までやりとげた。女の数学専攻は少なく、なんとマサ 斎藤とオレの姉さん、同じ数学教師だった。
メキシコの新聞売り場。なんかの事件だろう。凄惨の姿をした死体がそのまま載っている。
メキシコの旅は続きますよ。