窓の外には秋晴れの薄い水色の空が広がっている。


もう昼を過ぎたというのに事務所の電話が鳴ったのは一回だけ。


グルコサミンの錠剤を買わないかというセールスだった。




こんなふうに書き始めると、


いまぼくが書いている短篇小説『探偵』の書き出しのようだ。


40歳近くで職が見つからず、


経験を生かして探偵事務所を開設したものの依頼はなく、


半年経って開業資金も底をつき、


いよいよ夜逃げでもしなくてはというところから物語は始まる。



この短篇はもう10年以上前に書き始めたのだが、


そのときは完成できずにパソコンのなかで眠っていたもの。


それをいま書き直している。


今回は小説の書き方もいくらか身につけ、


面白いキャラクターも増えたので読者をウンザリさせない作品になっていると思うのだが、


アッとさせる結末がまだ思い浮かばない。


いまのアイディアは、


実際に自分の身近でそんなことがあったら驚くだろうが、


小説としてはインパクトが足りない。


それで書きあぐねている。


習作だからそんなに力まなくてもいいのだろうが、


習作といえども作品は自分のこどもなので、


できるだけいい作品に仕上げたい。



小説家の川上弘美さんも、


山形での小池真理子さんとのトークショーで、


目の前の30枚の作品に自分のすべてを出す。


出し惜しみなんかしてられない。


という意味のことを話された。



そうだと思う。


30枚の簡単な依頼だからテキトウに書こうなんて思ったら、


迫力に欠けるものになるだろうし、


それ以降の作品にも影響するのではないかと、


アマチュアながらに想像する。




作品には命を吹き込みたい。


登場人物がその小説のなかで生き生きと感じられるように。




最近リアル友からfacebookの友だち申請がポツリポツリと来るようになった。


昨夜も福島の友だちから来たので、


それを受けたiPhoneからメッセージを返そうとすると、


ぼくのiPhone4のfacebookアプリは一文字を入力しただけであとは文字が入らずにフリーズしてしまう。


何度も試したがフリーズを繰り返すので仕方なくPCでfacebookにアクセスしてみた。


すると画面に出てきたのは横に90度傾いた、鏡を使って撮ったぼくの正面からの写真。


いろいろ試したけどどうしても傾いたまま直ってくれない写真が出てきた。


それが気になったので、


写真を削除する方法をなんとか探し出し、


新しい写真をアップすると、


今度はちゃんと正立している!


やったーっ!


と嬉しくなって、


その思いをタイムライン(というの?)に書いてみた。


するとそのときアクセスしていた知人から「いいね!」が即返ってきた。


そしてそのいいねにコメントを返したりしているうちに少しずつ使い方がわかってきた。


さらに「今なにしてる?」に書き込み始めた。


最近手相占いのことを調べていると書くと、


また別の知人から「今度手相を見て」というコメントが入る。


そうすると楽しくなってくる。



アメーバでもぼくのブログを見てくれるリアル友はいるのだが、


ペタやコメントなどをやりとりしてくれるのはほとんどサイトで知り合った友だちなどで、


いまひとつ存在感が薄いのだが、


facebookのコメントはほとんどがリアル友だ。


存在感がビシビシ伝わってくる。


最初はやり方がよくわからなかったので登録だけした放っておいたfacebookだが、


その楽しさをやっと昨日の夜感じた。



それからはタイムラインにしょっちゅうアップするようになった。


メールを受け取るように設定している友だちは迷惑しているかもしれない(^_^;



今日もアメーバにアクセするより速くfacebookを開いて、


これからアメーバのブログを書き始めると書いている。


ブログを書くのはひとりの作業だから、


リアル友の誰かがそれを知ってくれているかもしれないと思うとこころの張りになるし、


ひとりの作業で息づまるような感覚を軽減してくれるのだ。



作品を作るというある面しんどい作業が、


facebookにアクセスすることで楽しい作業にもなり得るのだ。



こんな効用があったとは知らなんだ(☆_☆)





今日は別のタイトルでエッセイを書こうと思っていたのですが、


昨夜その楽しさを体験したばかりのfacebookについて書いてみました。




このところ毎日のようにブログをアップしている。


これはブログ開設した今年の4月以来のこと。


ただあのときは以前作った作品をアップしていたので、


毎日創作をしてそれを掲載していたわけではない。



今週アップしたエッセイ(のようなもの)はその日に書いてすぐアップしている。


昨日の「女友だち」は午前11時過ぎに書き始めたものだが、


途中で来客があり、その後ぼくが外出したので、


書き上げたのは夜の9時半になっていた。


外出から帰って夕食を食べ、


茶の間で横になってウツラウツラしたときには、


「書きかけのブログは翌日に回そうか?」とも思ったのだが、


すぐに眠気は醒めたので茶の間を離れて机に向かった。


ブログを書きながらお昼過ぎに、


女ともだちRukaに彼女のことを書いていいかというメールを出して承諾を得ていたので、


彼女がぼくのブログのアップを待っているとも思ったのだ。



続きを夜の7時半頃から2時間かけて書き上げた。


合計で3時間ほど昨日はブログを書くのに費やしている。


あの文章にそれだけの時間がかかったのは書くのが遅すぎるとも思われるが、


それがいまのぼくなのでしょうがない。



そう書いて小学校の頃の算数の時間を思い出した。


あの頃は算数の問題を解く度にその速さを競わされた。


「はいできた人?」と手を上げさせられる。


算数レベルの問題では答もそれを導き出す過程の式もひとつしかないので、


解答のクオリティなど関係なく、


課題となったのは解答が正しいかどうかと、


問題を解く速さだった。



その影響がいまのぼくにも残っているのではないか?


こどもの頃に刷り込まれた「速い=良い」


という価値観が無意識に根を張って、


ぼくの行動にプレッシャーをかけているように思う。


それが昨日のブログに3時間かかったことを、


書くのが遅いと反省させる。



原始時代 古代 中世 近世 近代 現代と


人間はその行動と思考をスピードアップしてきた。


そして一日にできる仕事の量を増やし、


その結果がいまのぼくたちの暮らしと生き方になっている。



100年前は山形から仙台に行くというのは数日かかる徒歩の旅だったが、


いまは10分おきに発着する高速バスに乗って1時間で行ってしまう。


「速く、速く」というのは単に小学校の目標というわけではなく、


いわば人類の目標であったのだ。



しかし、ぼくたちは速さの追求の結果に満足しているだろうか?


速い=良い


が万能の式でないことにぼくたちはすでに気づいている。



車や電車を降りて自転車に乗る人が増えている。


ファストフードに対してスローフードの運動が胎動している。


農業に就労する若者が増えている。



速さ信仰という呪縛のなかでそこからこぼれ落ちたもの。


それをすくい上げて見つめてみたい。