ベテランの主任保育士が、園を去った。送別会は、温かく終わった。だが翌週から、園の空気が、少しずつおかしくなった。新人が迷い、保護者がどこか不安げになり、園長は言葉にできない違和感を抱えた。辞めたのは、一人の保育士だった。だが園から消えたのは、一人分では、なかった。
辞めたのは一人。だが、消えたのは一人分ではない
退職届は、一人分の欠員として処理される。求人を出し、一人採用すれば、頭数は戻る。だが、戻らないものがある。その人が長い年月をかけて園に染み込ませていた「らしさ」である。それは引き継ぎ書には書かれない。だから、辞めて初めて、何が失われたかが分かる。
ある認可保育園の園長は、こう振り返る。
「あの主任がいたときは、何も心配してなかったんです。新人が困ってたら、いつのまにか隣にいて。保護者がピリついてたら、さっと間に入って。ケンカした子への声のかけ方、行事のときの段取り、園全体の空気の作り方——全部、あの人がやってくれてた。辞めて一ヶ月して気づいたんです。うちの園の『こういうときはこうする』って、全部あの人の頭の中にあったんだって。マニュアルには、どこにも書いてなかった」
消えたのは、労働力ではない。園が大切にしてきた判断の基準、その全部が、一人の頭とともに出ていったのである。
園の「らしさ」は、あの人の背中に宿っていた
どの園にも、理念がある。壁に貼られた言葉、パンフレットに書かれた方針。だが、本当の理念は、そこにはない。日々の現場で、ベテランがどう動くか。その背中の中に宿っている。
泣いている子に、どう寄り添うか。保護者のクレームを、どう受け止めるか。行事で何を大切にするか。それらは言葉になっていない。「あの人ならこうする」という手本として、現場に存在していただけである。だから、その人が消えれば、手本ごと消える。理念が属人化していたことに、失って初めて気づく。これは誰かの怠慢ではない。理念を言葉にして残す構造が、なかったことの帰結である。
いちばん理念を体現する人ほど、先に燃え尽きる
保育は、感情を支える仕事である。子どもに、その保護者に、常に穏やかで、笑顔でいることを求められる。理不尽をぶつけられても、受け止める。不安な子に、根気強く寄り添う。この消耗は、記録には残らない。
そして、いちばん園の理念を体現している人ほど、いちばん多くを背負う。丁寧な人ほど、気が回る人ほど、頼られる。新人のフォローも、保護者対応も、難しい場面も、その人に集まる。心のガソリンは、静かに減っていく。だが、子どものバイタルは毎日測っても、先生の心のバイタルは、誰も測らない。見えないものは、放置される。気づいたときには、いちばん失いたくない人が、辞表を出した後である。
「見て覚えて」では、判断の基準は継がれない
保育の継承は、多くが「見て覚える」で成り立っている。先輩の動きを見て、真似て、身につける。だが、この方法で継げるのは「行動」だけだ。その裏にある「なぜそうするのか」という判断の基準は、継がれない。
子どもを叱らずに待つ。その行動は真似できる。だが「なぜここでは待つのか」という理念は、言葉にされないかぎり伝わらない。だから新人は、形だけを真似て、応用が効かない。ベテランが去れば、基準を持つ人がいなくなり、園はそれぞれの自己流に散らばっていく。「うちの園らしさ」を判断できる人が、いなくなる。
一人が抜けた穴から、園の質が漏れていく
主任が一人辞める。その穴は、思っている以上に深い。
別の園の園長は、離職の連鎖をこう語った。
「ベテランが一人抜けたら、その人がやってた仕事が、残ったみんなに散らばったんです。新人の面倒も、保護者対応も。みんな余裕がなくなって、ピリピリして。そうすると今度は、その空気に耐えられなくなった若手が辞める。保育の質にムラが出て、保護者からの見る目も変わってきて。気づいたら一年で、中堅とベテランが立て続けに抜けてました」
まず、保育の質にムラが出る。判断の基準を持つ人が減り、対応が人によってバラつく。同じ場面でも、先生によって言うことが違う。子どもも、保護者も、戸惑う。
次に、残った先生に負荷が集中する。その疲弊が、次の離職を呼ぶ。離職が離職を呼ぶ構造は、ここでも同じだ。
そして最も深刻なのは、保護者からの信頼が揺らぐことである。保育の質は、そのまま園の評判になる。「あの園、最近変わったよね」——その一言が広がれば、入園希望は減り、優秀な人材も集まりにくくなる。人の問題は、必ず質の問題になり、園の経営の問題になる。
気づけば園長は、欠員の穴埋めと保護者対応に追われるだけの毎日になる。本来やるべき人材育成も、理念の浸透も、止まる。園が最も大切にしてきたものから、順に薄れていく。
理念を、あの人の頭から園の真ん中へ移す
対処は難しくない。必要なのは、カリスマでも、分厚いマニュアルでもない。「理念が、一人の頭ではなく、園に宿る構造」である。今日から試せる打ち手を三つ挙げる。
打ち手1:園の「らしさ」を、日々の一言で言葉にする
保育には、日誌や連絡帳を書く文化がすでにある。そこに、ほんの一行を足す。「今日、園が大切にしていることを、どこで実践できたか」「迷った場面と、どう判断したか」。行動の記録ではなく、判断の言葉を残させる。
問いが変われば、答えが変わる。作業の報告ではなく、その人が何を大切に動いたかが、言葉になって表に出てくる。頭の中にあった基準が、少しずつ園の共有財産に変わっていく。溜め込む前に、言葉にして外に出す。それだけで、失われるはずだったものが残り始める。
打ち手2:その一言に、園長の「判断の基準」で反応を返す
書かせるだけでは意味がない。書かれた一行に、園長や主任が必ず反応する。ただ褒めるのではない。「その場面で待ったのは、正解。うちはそこを大事にしている」——判断の理由ごと、言葉にして返す。
これが、理念を伝えるということである。一人ひとりの現場の迷いに、園長の基準で答える。その往復のなかで、「うちの園ならこう考える」が、全員に染み込んでいく。同時に、書いた人は「自分は見てもらえている」と感じる。感情労働の消耗も、ここで少し和らぐ。ただし、全員の日誌に園長が一人で毎日返し続けるのは、現実には続かない。ここを仕組みで支えられるかが、分かれ目になる。
打ち手3:いちばん体現している人の心を、いちばん先に見る
園の理念をいちばん背負っている人ほど、いちばん静かに消耗する。だから、その人の心のバイタルを、真っ先に見る。「最近どう?」の一言でいい。日々の記録に滲む変化を、見逃さない。
丁寧な人、気が回る人、頼られる人。その人が「少し疲れた」と漏らしたとき、それは限界の直前かもしれない。子どもの様子を見るのと同じ目で、先生の様子も見る。いちばん失いたくない人を、いちばん先に守る。それが、園の理念そのものを守ることになる。
まとめ
保育の離職は、先生の優しさが足りないからでも、給料が安いからでもない。園の理念と判断の基準が、言葉にされず、一人の頭の中だけに宿っていたことが原因である。逆に言えば、その基準さえ日々言葉にして共有できれば、誰が辞めても、園の「らしさ」は残る。
冒頭の園から消えたのは、一人の保育士ではなかった。言葉にされないまま、その人の背中だけに宿っていた、園の理念そのものだった。だが、理念が毎日おろされ、返される構造があれば、それは一人の頭を出て、園の真ん中に宿る。そうなれば、誰かが去っても、園から消えるものは、もうない。
理念は、あの人の頭の中にあるかぎり、いつか消える。園の真ん中に置けたとき、初めて残る。構造を変えれば、人は変わる。園も変わる。
編集後記
以前、接客業や介護、運送の現場で「突然辞める」がなぜ起きるのか、という記事を書きました。根っこにあったのは、現場の声を拾って返す構造がない、という一点でした。今回、保育の現場を取材して見えてきたのは、それと地続きの、もう一つの問題です。辞めていくのがベテランのとき、消えるのは「人手」だけではありません。その人の頭の中にしかなかった「園のらしさ」——理念そのものが、一緒に出ていってしまうのです。声が届かない構造は、人だけでなく、理念まで逃がしてしまう。業種は違っても、根っこはいつも同じでした。
私たちがIsmAIを開発した背景には、この「大切なものが、一人の頭の中だけにある」という構造への問題意識がありました。理念は、壁に貼っただけでは浸透しません。日々の現場の迷いに、園長の基準で答え続けたときに、初めて全員に染み込んでいく。だが、園長は忙しい。全員の日誌に毎日目を通し、判断の理由まで添えて返すのは、現実には難しい。だからこそ、仕組みが要る。
IsmAIは、園長や経営者の理念・価値観・言葉づかいを学習し、先生たちが毎日書く日誌や一言に、24時間フィードバックを返します。「その場面で待ったのは、うちが大事にしていること」——園長ならこう返すだろう、という言葉が、日々おろされていく。理念が、一人の頭を出て、園の共有財産に変わっていきます。そして、見過ごせない兆候——いちばん理念を体現している人の、静かな消耗のサイン——には、アラートが飛びます。
導入してくださったある園長さんは、こんな話をしてくれました。
「ずっと園を支えてくれてる、頼りになる先生でした。日誌も、いつもどおり丁寧で。でもIsmAIが『この先生、少し様子が違うかもしれません』とアラートを上げてくれて。声をかけたら、実は一人で抱えすぎていたんです。ちゃんと話を聞けたら、辞めずに続けてくれました。あのまま気づかなかったら、うちはまた、大切なものを失うところでした」
いちばん失いたくない人が辞める前に、園長が動ける。そして、その人が背負っていた理念が、毎日の対話を通じて、園全体に残っていく。これが、仕組みで理念を回すということです。
「園長がその場にいなくても、先生たちが園と同じ想いで判断できる園」。私たちがつくりたいのは、そういう組織です。大切なものを、一人の頭の中に人質に取らせない。それを、仕組みとして持てる時代になりました。