無知の恥と、それを知る難しさ。
『FAKE』
森達也 監督
佐村河内さんを追ったドキュメント。
騒動が起きたのが2013年で、公開自体は2016年なので、そんな前の話だったっけ?と少し思ったり。
障がい者への視線と、芸術家への視線と、二つの視線が向けられていると思うのだけれど、結局この二つの視線は混濁されたまま、騒動はこんがらがって有耶無耶になった印象。
自分も話では聞いていたけど、それ以上の興味はなかったので色々な視点を発見をしながら観ていた。
特に、障がい者への視線ね。
ある障がいを持っているとわかっていても、どの範囲で不自由なのかは人それぞれで、キチンと行政なりの基準も決められているのだけれど、普通に生きているぶんには伝わらないものなのだと反省するばかり。
この部分は極めて “科学的” であって曲げてはならないのだけれど、人が食いつく面白さのために、“間違ってはないけれど正しくない表現” が繰り返されていた、というのがなんとも虚しいところ。
一方で、芸術家への視線は、専門で習っていたこともあって、えらく線引きが難しいところに突っ込んで行ってしまってると思いながら観てました。
一般の人には、たぶん作曲を行ってないと見えるのだけれど、なまじっか勉強してる身からすると、作曲してないとは言い切れないというモヤモヤした気持ちになる。
で、そこの微妙な部分をキチンと語ってくれる人がいないのが、これまたモヤモヤしてるんですよね。
そういうモヤモヤを抱えながらの、ラストのラスト。
「ラストは語らないでください」となっているけれど、おそらく時間数的にこの部分は外れているので、言及するのだけれど。
ある質問で終わるんですけど、ここもモヤモヤして。
端的にいうと、「映画としては正解なんだけど、ドキュメントとしては不正解」っていうのがモヤっとしてる点で。
観終わった瞬間は、「あーなるほど!」となるのだけれど、時間が経つにつれて、「いや、やっぱりあの質問は不用意だったのではないか」ってなるんです。
ここのところがドキュメンタリー映画の難しいところで、映画作品という虚構のなかで、ドキュメントというリアルが必ずしもうまく描けるわけがないということをひさびさに見せつけられた瞬間だったな、と思う。
そしてそう思うと、『ナイトクルージング』は、そこの部分をうまく作品として成立させていたんだなと考えるのです。
ま、初めっから目的がハッキリしていた『ナイトクルージング』と、目的がおそらく途中で変わったのであろう『FAKE』を同列に置くことは難しいのだけれど、このモチーフの似た二つの作品のあいだの揺らぎのなかに、ドキュメンタリー映画の面白さを見つけるのです。
特に、日本という同じ国の狭いうちに起こるのが、不可思議。