http://number.bunshun.jp/articles/-/825097
<日本代表主将が己の人生を語る>
リーチマイケルの過去と現在。
15歳の時に南半球から北の大地にやって来た純朴な留学生は、今では“ジャパンウェイ”を体現する大黒柱へと成長を遂げた。日本で過ごした12年という時間は、彼をどのように変えたのか――。
日本ラグビーの歴史を変えた一戦、そこには日本代表のキャプテン、リーチマイケルにとって体験したことのない不思議な時間が流れていた。
「しんどい試合でしたが、気持ちいい疲れ。プレーしていて超楽しかったんです。というのも、相手の動きがスローに見えるくらい余裕ありましたから。自分たちが相手を動かしている、という手応えがありました。そういう試合はなかなかありません。それができたのは、考える暇もないような厳しい練習をしてきたからだと思います」
映画のような結末に列島が酔いしれ、チームメイトが歓喜を爆発させる。その熱狂の渦の中で、リーチは日本に留学してからの歳月を思い浮かべていた。
ラグビー王国ニュージーランドに生まれ育ったリーチはいまから12年前、2004年に札幌の大地に降り立った。
日本で言うところの“縁”があって、いまがある。
リーチマイケル Michael Leitch
1988年10月7日、ニュージーランド生まれ。留学生として15歳で札幌山の手高に入学。東海大在学中の’08年に日本代表初キャップ。'11年、東芝に加入。'13年7月に日本国籍を取得し、'14年4月から日本代表の主将に就任。W杯は'11年、'15年大会に出場。190cm、105kg。
「全国では決して強い高校に留学したわけではないのに代表のキャプテンに選ばれて、あの勝利を経験することができた。それは昔から決まっていたというか……。そういうの、日本では縁というんですよね。そのときどきに出会った人たちに導かれて、いまがあるような気がするんです」
南半球からやって来た大らかで純朴な少年は、北の大地でもホームステイ先の一家やチームメイト、さらには父兄からの愛情をたっぷりと浴びて真っ直ぐに育った。
ただ日本での道のりは、決して平坦だったわけではない。『代表チームは勝つもの』、そう信じていた若者は、日本の負け慣れた精神と戦わなければならなかったからだ。
忘れられない敗北がある。
2011年、ニュージーランドでの大舞台でリーチと日本は開催国に大惨敗を喫する。故郷に錦を飾るつもりが、爪跡すら残せなかった。
「お客さんに気持ちを全然伝えられないまま負けたんです。145失点した昔の悪いイメージを変えられなかった。日本は相変わらず弱いままだな、そう思われただけで終わったんです」
背中で「きみたちは弱くない」と仲間に訴え続けた。
故郷の友人に日本のラグビーは強いんだと訴えると冗談扱いされ、情けない思いをした。だが、それでも投げやりにはならなかった。言葉ではなく、戦う背中を見せることで「きみたちは弱くない」、「勝てるんだ」と仲間に訴え続けた。第二の故郷、日本のことが大好きで、何よりも日本人の可能性をだれよりも信じていたからだ。
「ニュージーランドでプレーする日本人選手は、力はあるのにタックルができない、プレッシャーに弱いと誤解されていて、なかなか使ってもらえない。それは腹が立つことです。だって日本の学生はものすごくいいプレーをするんですから。日本人がやっている猛練習をさせたら、週2日しか練習しないニュージーランド人はすぐ逃げ出すと思う。それくらいタフなのに、自分たちの力を信じられなかった」
一切の妥協を許さないエディー・ジョーンズHCがリーチをキャプテンに指名したときから、何かが変わり始めた。負の歴史に縛られ、夢を見ることすら忘れていた日本ラグビーの、止まっていた時計の針が動き出す。リーチは戦いに勝ったのだ。
ラグビーと私生活のスイッチを切り替える時間。
あの歴史的一戦を境に、寡黙なキャプテンはだれもが知るスターになった。だが、淡々とした日常に変わりはない。自宅と練習場の往復では、いつものように喫茶店に立ち寄って束の間の休息をたのしむ。
「練習で興奮したまま自宅に帰ると、妻やこどもに伝わっちゃいますから。15分くらいですが、ラグビーと私生活のスイッチを切り替えるんです」
自転車を漕いで行きつけの喫茶店に向かう彼の左腕には、「アテッサ エコ・ドライブGPS衛星電波時計 F900」が光る。世界中どこにいても正確な時を刻むその時計は、これから祖国ニュージーランドでのスーパーラグビーに臨むリーチにとって、頼もしい相棒となるはずだ。
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またまたウルッ
な記事でした。
#ラグビー
#Japanway
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<日本代表主将が己の人生を語る>
リーチマイケルの過去と現在。
15歳の時に南半球から北の大地にやって来た純朴な留学生は、今では“ジャパンウェイ”を体現する大黒柱へと成長を遂げた。日本で過ごした12年という時間は、彼をどのように変えたのか――。
日本ラグビーの歴史を変えた一戦、そこには日本代表のキャプテン、リーチマイケルにとって体験したことのない不思議な時間が流れていた。
「しんどい試合でしたが、気持ちいい疲れ。プレーしていて超楽しかったんです。というのも、相手の動きがスローに見えるくらい余裕ありましたから。自分たちが相手を動かしている、という手応えがありました。そういう試合はなかなかありません。それができたのは、考える暇もないような厳しい練習をしてきたからだと思います」
映画のような結末に列島が酔いしれ、チームメイトが歓喜を爆発させる。その熱狂の渦の中で、リーチは日本に留学してからの歳月を思い浮かべていた。
ラグビー王国ニュージーランドに生まれ育ったリーチはいまから12年前、2004年に札幌の大地に降り立った。
日本で言うところの“縁”があって、いまがある。
リーチマイケル Michael Leitch
1988年10月7日、ニュージーランド生まれ。留学生として15歳で札幌山の手高に入学。東海大在学中の’08年に日本代表初キャップ。'11年、東芝に加入。'13年7月に日本国籍を取得し、'14年4月から日本代表の主将に就任。W杯は'11年、'15年大会に出場。190cm、105kg。
「全国では決して強い高校に留学したわけではないのに代表のキャプテンに選ばれて、あの勝利を経験することができた。それは昔から決まっていたというか……。そういうの、日本では縁というんですよね。そのときどきに出会った人たちに導かれて、いまがあるような気がするんです」
南半球からやって来た大らかで純朴な少年は、北の大地でもホームステイ先の一家やチームメイト、さらには父兄からの愛情をたっぷりと浴びて真っ直ぐに育った。
ただ日本での道のりは、決して平坦だったわけではない。『代表チームは勝つもの』、そう信じていた若者は、日本の負け慣れた精神と戦わなければならなかったからだ。
忘れられない敗北がある。
2011年、ニュージーランドでの大舞台でリーチと日本は開催国に大惨敗を喫する。故郷に錦を飾るつもりが、爪跡すら残せなかった。
「お客さんに気持ちを全然伝えられないまま負けたんです。145失点した昔の悪いイメージを変えられなかった。日本は相変わらず弱いままだな、そう思われただけで終わったんです」
背中で「きみたちは弱くない」と仲間に訴え続けた。
故郷の友人に日本のラグビーは強いんだと訴えると冗談扱いされ、情けない思いをした。だが、それでも投げやりにはならなかった。言葉ではなく、戦う背中を見せることで「きみたちは弱くない」、「勝てるんだ」と仲間に訴え続けた。第二の故郷、日本のことが大好きで、何よりも日本人の可能性をだれよりも信じていたからだ。
「ニュージーランドでプレーする日本人選手は、力はあるのにタックルができない、プレッシャーに弱いと誤解されていて、なかなか使ってもらえない。それは腹が立つことです。だって日本の学生はものすごくいいプレーをするんですから。日本人がやっている猛練習をさせたら、週2日しか練習しないニュージーランド人はすぐ逃げ出すと思う。それくらいタフなのに、自分たちの力を信じられなかった」
一切の妥協を許さないエディー・ジョーンズHCがリーチをキャプテンに指名したときから、何かが変わり始めた。負の歴史に縛られ、夢を見ることすら忘れていた日本ラグビーの、止まっていた時計の針が動き出す。リーチは戦いに勝ったのだ。
ラグビーと私生活のスイッチを切り替える時間。
あの歴史的一戦を境に、寡黙なキャプテンはだれもが知るスターになった。だが、淡々とした日常に変わりはない。自宅と練習場の往復では、いつものように喫茶店に立ち寄って束の間の休息をたのしむ。
「練習で興奮したまま自宅に帰ると、妻やこどもに伝わっちゃいますから。15分くらいですが、ラグビーと私生活のスイッチを切り替えるんです」
自転車を漕いで行きつけの喫茶店に向かう彼の左腕には、「アテッサ エコ・ドライブGPS衛星電波時計 F900」が光る。世界中どこにいても正確な時を刻むその時計は、これから祖国ニュージーランドでのスーパーラグビーに臨むリーチにとって、頼もしい相棒となるはずだ。
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またまたウルッ

な記事でした。
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