
待望の「あしたのジョー」実写版を観た。
「この時代の若者にジョーはいるか?」の挑戦的な宣伝文句通りの「熱い」映画だった。
感動した。
冒頭であの主題歌のイントロが流れるだけで目頭が熱くなった。
当時あの漫画に熱狂した「あしたのジョー世代」は、すでに50歳以上だろう。
ではなぜ今「あしたのジョー」なのか?
貧富の差が今以上に激しかった、昭和40年代のドヤ街が舞台で、親に棄てられた孤児・矢吹丈が主人公。
その後の日本は飽食の時代を迎え、一億総中流となり、「ハングリー精神」や「根性」という言葉は忘れ去られて来た。
それが平成の今になって、長引く不況から貧富の差は増大し、一億総貧困層にもなりかねない状況にある。
こんな時代だからこそ、もう一度あの頃の「熱い思い」を思い出そう。ということだ。
「明日はきっと何かある」と信じて、がむしゃらに「今日を生きていた」時代。
明日が見えない今だからこそ、もう一度「明日を信じよう」そしてもう一度「明日の為のその1」から始めよう。ということだ。
それこそが、今なぜ「あしたのジョー」か?の答えなのだ。
そしてこの現代にこそ伝えたいメッセージを伝える手段が「闘う男たち」なのだ。
この映画が素晴らしいのは、何より生身の肉体でメッセージを伝えている事だ。
主役の二人「矢吹丈=山下智久」と「力石徹=伊勢谷友介」の「肉体改造」が壮絶だ。
役者とは本来「肉体で語る者」である事をあらためて思い出させてくれる。
二人は相当にハードなトレーニングを積んで、プロボクサー体型を作り上げたらしいが、ここに「嘘」があっては、この手のスポーツモノは興醒めである。
原作と比べてどうとか、イメージが違うとか、ジャニーズだからとか、そんな低レベルの批判をすべて一蹴するだけの、有無を言わせぬ「説得力」が、二人の役者の「肉体」から発散されているのだ。
特に伝説の「力石徹の過酷な減量」に、伊勢谷友介がCGに一切頼らず、リアルに実現させているのだ。
計量のシーンの伊勢谷友介の腹のへこみ具合は「壮絶」だった。
自身をそこまでストイックに追いつめた二人の「殴り合い」のシーンもまた、一切の「嘘」がない。本気で殴り合わなければ、決して表現出来ない、小手先の芝居を超えた肉体で語る芝居が見事だ。
往年のファンは、伝説の「クロスカウンター」を実写で観れる奇跡に驚喜するだろう。
倒れても倒れても自分の足で立ち上がるジョーの姿は、涙無しには見れないだろう。
そしてあの丹下段平の「立つんだジョー!」の名台詞も!
そう、今をときめく名優・香川照之が、そっくりな特殊メイクで、本気で丹下段平になりきろうとしている姿からも、この映画がただのジャニーズ主演のアイドル映画ではないことがうかがえるだろう。
もちろん、山Pファンは山P主演映画として観ればいい。ますますファンになるのは間違いない。
でも「原作とイメージが違う」とか「ジャニーズだから」と言った先入観で、この映画を観ずに評価するのだけはやめて欲しいと思う。
それでは過酷なトレーニングに耐えて肉体改造し、本気で殴り合った主演の二人に失礼だろう。
とにかく「闘う男たちが美しい」。
男は闘ってこそ男になるのだ。という当たり前の事に気づかせてくれる。
「豚は死ね。狼は生きろ」という言葉があるが、やはり男は闘う狼でなければならない。その上で「優しくなければ生きていく資格が無い」のだ。
もちろん「闘う」の意味は、格闘技やスポーツや喧嘩などを差すのではない。
仕事でも、子育てでも、勉強でも、就活でも、社会には「闘う」べきことは山ほどある。
すべての女性に問いたい。
あなたの周りの男たちは闘っているか?と。
ハリウッドには過去に「ロッキー」をはじめ「レイジングブル」「シンデレラマン」「ミリオンダラーベイビー」といったボクシング映画の傑作が多数あるが、日本映画では、寺山修司監督、菅原文太、清水健太郎主演の「ボクサー」ぐらいしか見当たらない。
その意味でこの「あしたのジョー」には、日本映画初にして、日本映画史上最高のボクシング映画の称号を与えてもいいと思う。
本年度日本映画ベスト3に入れたい傑作だ。