先週後半のブログ再開記事に対するネット・ユーザーたちと言うよりもネットの世界を徘徊する綾野剛ファンたちのあまりの冷遇への意趣返しのため、怒りを籠めて彼の誕生日祝いの新作記事をアメンバー限定として掲載することにした。

 

その代わりという意図はないが、ほぼ2年前にドラマチックナビ・ブログに「映画の舞台」として掲載したキネ旬ベストテン6冠「そこのみにて光輝く」~ロケ地マップで重要シーンと撮影地を振り返る=前編>(2015年2月12日付け)とキネ旬ベストテン6冠「そこのみにて光輝く」~ロケ地マップで重要シーンと撮影地を振り返る=後編>(2015年2月13日付け)を合体させて再々公開したい。

 

 

2014年4月19日(土)公開の「そこのみにて光輝く」は、映画俳優・綾野剛君の大きな節目となった作品でありながら、私にとってはちょうどブログ運営の空白期間と重なったため、リアルタイムで語ることができなかった。
だから、この記事のオリジナル版を旧・本冊ウィズネームブログに掲載したのは、鑑賞から3ヵ月半近くも経った同年8月2日のことだった。

その後、ブルーレイ/DVDが同年11月4日にリリースされ、誰でもレンタルで観れるようになっても、「モントリオール国際映画祭」での監督賞の受賞だけでは、本作はまだ広く関心を持たれるような状況ではなかったと言える。

だが、新年を迎えて「第88回キネマ旬報ベスト・テン」「第69回毎日映画コンクール」「第36回ヨコハマ映画祭」の3つの映画賞において、本作への出演により綾野君が主演男優賞を相次いで獲得するなどの快挙を成し遂げたことで、ようやく広く注目を集めるようになったと思う。

それにしても、日本テレビ系の情報・バラエティ番組での「第88回キネマ旬報ベスト・テン」の授賞式の扱いは、お粗末だった。
その対応は、同局が独占放送している「日本アカデミー賞」において1部門当たり5人(作)も選ばれる「優秀賞」の対象が本秀作に対してあえてこの部門だけ6人に枠を増やした「優秀主演女優賞」のみという極めて不見識な扱いを行った受けたことと無縁ではないだろう。

もちろん一番不当な扱いがなされたのは綾野君と呉美保監督だったが、今年の日本アカデミー賞でようやく「日本で一番悪い奴ら」により綾野君は優秀主演男優賞を受賞できた。

同じく国内で不当な扱いを受けた北野武監督の「日本アカデミー賞」批判は、「毒舌」ではなく「正論」と言わざるを得ないように、本場のアカデミー賞と違って、同賞の選定が東宝をはじめとする大手配給会社とそのバックに控える民放テレビ会社などマスコミの興行的利害の調整結果の面が強いことは、中長期的に日本映画界の衰退を招くものだ。

中でも大手配給会社自身が、2014年の日本映画界を代表する作品として「そこのみて光輝く」をアカデミー賞の外国語映画賞の候補作として選んでおきながら、函館発のマイナーな製作・配給作であるという理由により「日本アカデミー賞」では無視したのだったとしたら、自殺行為以外の何物でもない。

近年、本家のアカデミー賞がマイナーな作品に対しても目配りするようになっていることと比べると、日本の場合、賞のタイトルから「アカデミー」という言葉を返上すべきだろう。

だからドラマチックナビ・ブログの記事は、「日本アカデミー賞」と異なり、本来の作品性で選ばれる「キネマ旬報ベスト・テン」において「そこのみにて光輝く」が6部門の栄冠に「光輝いた」ことを祝して、修正の上、再公開することにした次第だった。


なお、ここで6部門と言ったのは、映画評論家たちの投票による「日本映画第1位」と読者選出による「日本映画第1位」、「個人賞部門」のうち、「主演男優賞」、「日本映画監督賞」、「日本映画脚本賞」、さらには読者選出の「日本映画監督賞」のことである。

 

 

前置きとして、一番指摘したいことを書いたが、ここから本題に入ると、私が本作を名古屋の「伏見ミリオン座」で鑑賞したのは2014年4月23日(水)だった。

訪れて直ぐ目に留まったのは、1階のロビーの壁に貼られた綾野君たちのサイン入りポスター(上の画像)と「はこだてフィルムコミッション」制作のロケ地マップだった。(下の画像)

 

 

本作の公式サイトにも「ロケ地マップ」が収録されており(→ダイレクト・リンクは、こちら)、ミニシアターに掲示されたマップとロケ地の選択や解説内容は同じだが、Googleマップとリンクして詳細な地図情報を取得できるのが便利だった。

それに対して、オールカラーの紙媒体のマップの方は、B5判サイズの両面三つ折りで携帯し易いのと、広げて一覧できるのがアナログ派には重宝する。(上の画像の下半分は、マップの裏面)

だが、私と違って今どきの女性たちは、年齢を問わず、紙媒体のマップを手にしてロケ地を探訪するのではなく、スマホでネット情報を歩き見する方を選ぶのだろう。

なお、伏見ミリオン座では、映画鑑賞者に対してマップを配布するサービスはなかった(初日の初回に限定配付があったかもしれない)が、ロケ地となった函館では、本作の企画・製作を担当した菅原和博さんが経営し、封切り上映館でもある「シネマアイリス」をはじめ、「函館市市民交流まちづくりセンター」や「函館市中央図書館」で配布されたほか、全国の上映館の一部でも入手可能だったようだ。

しかし、私と同様、残念ながら手に入れることができなかった映画ファンも、落胆することはない。

函館市公式観光情報「はこぶら」のサイトでの「ニュース・お知らせ」として、2014年3月18日付けで掲載された<映画「そこのみにて光輝く」、函館ロケ地マップ完成>のページでPDFファイルで両面のダウンロードがまだできるからだ。→リンクは、こちら

さて本作は、2013年6月26日にクランクインし、7月19日のクランクアップまで函館市内と北斗市内で撮影された。

主なロケ地として、上記の2種類のマップでは、
 ①北斗市内の海・砂浜
 ②竹田食品
 ③函館市内の繁華街
 ④本町児童公園
 ⑤山上(やまのうえ)大神宮
 ⑥穴間(あなま)海岸
 ⑦十字街
 ⑧津軽屋食堂
 ⑨函館競輪場

が紹介されており、関連施設として、函館出身の原作者・佐藤泰志さんの直筆原稿などが展示されている
 ⑩函館市文学館
も収録されている。

だが、主人公・達夫にとってトラウマになっている落石死亡事故が起きた採石場などは盛り込まれていない。
函館観光を兼ねて、道外からの来訪客がロケ地巡りできる場所だけを選んだということだろうか。

ちなみに達夫が働いていた採石場は、映画のエンドクレジットの「撮影協力」リストの最初に表記された函館市内(本社所在地:函館市鉄山町140番地)にある「株式会社 鉄山協和組」の施設である。
同社の公式サイトにアクセスすると(→リンクは、こちら)、今も左下部の「新着情報」として「当社採掘場(函館市鉄山町)の舞台が上映中」の表記があり、リンクが貼られている。

その記事中に「注目はヘルメットのマーク!!」と書かれており、映画を観た時に気になった点の1つの答えが分かった。(この場面は、予告編にも登場している。)


一方、撮影は、ヒロインの千夏が働いている塩辛工場という設定で、実際に「いかの塩辛」などを製造・販売しているの竹田食品での撮影から始まったが、この施設は見学が可能なようだ。→竹田食品の公式サイトは、こちら

 

 

次に、本作のストーリー展開上、一番のポイントとなるシーンが撮影された特に重要なロケ地を3つだけ選んで解説することにしたい。


①北斗市内の海・砂浜…達夫と千夏が海で一緒に泳ぐことにより、2人の関係性が変化していく印象的なシーンの撮影場所として映画の中で繰り返し現れた。
中でも、海の中で2人が立ち泳ぎしながらキスを交わすシーンは決定的に重要な意味を持つ。


一方、達夫を演じた綾野君にとっても、出演映画・ドラマの中でヒロイン役の女性との記憶に残るキスシーンとして、将来にわたって上位にランクされ続けるだろう。

ちなみに、本ブログの新作記事として掲載した<綾野剛・演技進化論のキーワードⅠ=「キス」~「空飛ぶ広報室」から「怒り」までの7作を比較>において綾野君のフィルモグラフィー上の本作キスシーンの位置付けを行ったところである。

②函館市内の繁華街…映画の公開前に最初に公表されたビジュアルは、達夫が夜の街をふらつきながら歩くカットだった。
こうした夜の函館のシーンは、本町(五稜郭公園前電停付近)、松風町、十字街などの繁華街で撮影されたが、綾野君は、監督の許可を得て、実際に酒を飲んで体の中から達夫になり切る役づくりを行った。

③山上大神宮…物語を動かすキーパーソンである拓児が、姉・千夏を愛人にしているとともに自分の後見人でもある中島を刺す夏祭り会場の撮影場所になった。
達夫・千夏・拓児の3人の運命が大きく変わる物語の転換点となるこのクライマックスの舞台には、延べ300人以上もの地元エキストラが参加し、本作における最も大掛かりなシーンとして2日間かけて撮影された。
地元では坂本龍馬ゆかりの神社として知られる観光スポットの1つでもある。

ところで、この映画は、達夫が千夏と拓児の姉弟と出会い、変わっていくひと夏の短い期間を描いたものだ。
2015年2月12日で放送が終わったNHKのEテレの「岩井俊二のMOVIEラボ」第5回「ドラマ編・PART1」(2月5日(木)夜11時放送)において、テーマの核心を示すキーワードとして取り上げられ、具体例に基づき分析された「スライス・オブ・ライフ」(Slice of Life・人生の断片)の物語である。

この専門的な用語は、元々は、19世紀末にフランスの劇作家であるジャン・ジュリアンが提唱した演劇論の用語だが、小説や映画・テレビドラマを含めて、およそ主人公の行動や行為を描くドラマ(Drama・古代ギリシャ語の「ドラン=行動する」に由来)すべてに当てはまる概念である。

本作では、アパートの一室で怠惰な生活を送るだけだった達夫が、まず市内のパチンコ店で拓児という若者と偶然出会い、彼に連れられて廃屋のような彼の住まいに向かって、姉の千夏とも巡り逢う。
で取り上げた海中での立ち泳ぎでのキスを経て、2人は肉体的に結ばれるが、前科により保護観察中の拓児がで再び傷害事件を起こしたことで収監される。

その結果、達夫と千夏を結び付けた存在である拓児が「不在」となることによって、達夫は、千夏と共に拓児の出所を待ちながら一緒に生きて行くことを決意する。
映画の始まりの時点では、それぞれ孤独というよりも精神的に自虐的な状態であった3人が、映画のラストでは精神的に強く結ばれるドラマチックな変化を静かに、かつ、優しい眼差しで描いた映像作品だ。

その象徴が、におけるラストシーンだ。
そこでは、達夫は逆光の立ち位置となり、早朝の"希望"の日差しを直接浴びるのは千夏の方だ。
だから、「そこのみにて光輝く」のは、誰よりも千夏であり、達夫は彼女の放つ光を浴びて、初めて愛と共に生きることの意味を知るのだった。