№1
日付:1980/2/13
タイトル:もう頬づえはつかない
監督:東陽一
劇場名:スカラ座 ※福岡宝塚会館5F 同時上映は「Keiko」
パンフレット:あり(\250)、アートシアター№140(\300)
評価:-
公開当時のパンフレットに、監督の話としてこんな記事が載っていました。
映画を観終わった後に、喫茶店に入った女子学生二人と男友達。沈黙が続く中、男がその場を取り繕おうとこう言ったそうです。
「ところで、ご感想はいかがですか?」
その瞬間、女どもは二人ともこう思ったそうです。「あ、この男との付き合いはこれで終わりだ」と。
「今観てきた映画についてそれぞれが黙って静かに反芻している自由な時間を、気づまりな沈黙と錯覚して何か言ってしまうような男はつまらない」という事だそうです。
そしてそんな女性が反芻する映画を作った事を神に感謝しなければならないと。
当時高3の私にとって実につまらない映画だったこの作品の監督の、ぬけぬけとしたこのコメントに腹が立ったものでした。
パンフレット
アートシアター
2011年9月23日
TSUTAYA DISCASにてレンタルしたDVDで鑑賞。
(収録されていた予告編に、本編では使用されていないシーンが多数使われていたのが後で観て面白かった)
楽屋落ちのオープニングに溜息をつきながら観始めたのも束の間、オンボロ木造アパートの窓から外を覗き見るまり子(桃井)の視線から、どんどん作品に惹き込まれて行く。
まり子のふらつき具合、好きな男に影響され翻弄される様子と、言い寄る男にもある程度寛容なその振る舞いが、妙にリアルである種の共感めいた感情を自分の中に呼び起こされてしまいました。
この"共感"とは別にまり子自身にではなく、こういう女は確かにいて、男に振り回されているようで自分も振り回していて、小悪魔みたいで可愛くて、当事者気分で(私の場合奥田英二演じる橋本君)「あー、あるあるこういうの、こういう表情」みたいに、まりこの心模様を追い続けてしまった。住まいの木造アパートなんかも、自分の大学時代の生活とダブります。
男と女って、自分をさらけ出し過ぎると絶対上手くいかない。男と女でいる為にはある種のポーズと距離が必要なんです。そんなダメさ加減と可愛さを同居させる女性を桃井さんが好演。
終盤の展開、恒雄(森本レオ)がどんどんつまらない男になっていく様子と、急に吹っ切れたようなまり子の行動が実に残念で、日常のリアリズム的白昼夢がここで覚めてしまいました。
31年振りに観返して、作品及び監督さんの評価を改める事となりました。当時の私はお子ちゃまでした。おまけにこの時代への望郷の念も加わります。未見の「サード」とかも観てみたくなった。
全然タイプじゃないのにとても魅力的だった本作品の桃井かおりさんですが、最後まで女子大生には見えませんでした(当時27歳)。
2011年10月14日
原作を読み終えました。
怠惰な生活を送る「わたし」は自分を吐露し続け、彼女が"今"を継続する上で必要だった二人の男を見限った時点で、"プツン"っとテレビのスイッチが切れたかのように唐突に幕を閉じる。
彼女の身に起こった事はそれだけ重大事だった訳ですが、こればかりは男には計り知れないものがある。それゆえこれ以降の緊張感が嫌でも高まり、終盤失速気味の映像化された作品が相対的に貧相に見えてくる。
映画が、ダメな表現手段のような気がしてしまいました。