前回の続きとなります。

 

 

引き続きコリン・コバヤシさん著『ゲランドの塩物語 ─未来の生態系のために─』です。

 

 
 

 

ではゲランドの塩物語から引用させていただきます。

ここでは、第二次大戦後からの塩職人のくらしを振り返ります。

家族産業の崩壊

第二次大戦は若い労働力を奪い、塩田産業のような家族産業にも打撃だった。戦後の復興によって、産業全体でますます工業化・機械化が大発展し、サラン・デュ・ミディ社がすすめる地中海での塩の大量生産は、いっそう西部の手工業的製塩業の脅威となった。

競争激化によって、西海岸の製塩業が下火になると、残った塩職人のほとんどは兼業せざるをえず、多くは塩田以外の職人としても働いた。収穫期でさえ、昼間は職人として働き、夕方、仕事が終わったあと、なおかつ塩田の作業に出るという過酷な状況だった。あるいは製塩業と農業を兼業し、とくに小作塩職人は、塩田所有の塩職人が六〇の採塩池を持つのにたいし、九〇~一〇〇ほどの採塩をひとりで開拓しなければならなかった。そのうえ、五ヘクタールほどの農地開発も並行しておこなうので、肉体的にはきつい労働だった。朝は日が昇る前から起き、田を耕し、塩田を整備し、目まぐるしい活動をした。一九世紀の兼業は、まだ塩の需要が高かったから、農業はほどほどでよかったし、専業の職人も多くいたのである。

塩職人による農業の耕作や塩の運搬は、戦前まではほとんどすべて馬に依存していた。戦後、機械化されたといえば、馬がトラクターに代わっただけである。塩の運搬は楽になったものの、塩田での基本的な作業は、さまざまな物理条件のためにほとんど自力でやらざるをえない。

女性も積極的に塩生産の作業に加わった。 初摘みのフルール・ド・セル(塩の花)を取るのはほとんど女性の手によるし、粗塩の収穫にも主婦は参加した。 兼業の農耕はほとんど夫婦共同の仕事だった。

子どもも小さいときには、まず水田の水の流れを調節するスレート板の水門の開閉を覚えて担当し、ある程度大きくなると、収穫した塩のトロッコによる運搬に手を貸した。また、畔に生える雑草サリコルヌを取り除く作業をした。ちなみにこの野草は、酢漬けにしてピックルスのように食べるし、食品として販売されてもいる。

サリコルヌという植物が出てきました。

この植物は日本ではシーアスパラガス、アッケシソウと呼ばれています。

スギナを肉厚にしたような見た目ですね。

 

 

北海道や香川県などの沿岸の塩田地に分布していますが、環境庁のレッドデータブックでは絶滅危惧IB類に分類されています。海岸開発が主原因で減少、絶滅してしまったとのことですが、ゲランドの塩田では普通に野草として生えています。

ゲランドの塩田のサリコルヌは、大量の無機塩、豊富なビタミンA、C、D、ミネラル、ヨウ素を蓄積する特性を持っているそうで、まぁこれも海の状態をそのまま反映しているのかなと思われます。

家族産業という産業形態が少しずつ崩壊し始めるのは戦後の復興期からである。

生活苦のなかで、親は息子が家業を継ぐことを望まなかったし、若者は近くの都市に就職していき、家族は離散状態になる。親から息子へ引き継がれてきた伝承技術は、その契機を失っていった。このような光景は、じつはあらゆる農業国が近代化の果てに体験した地域社会の崩壊現象なのだった。

家族産業が崩壊した根底には、この手工業的産業が経済的に自立してゆくための流通基盤を持たず、あくまで仲介業者による販売にのみ依存していたことで、継続的に安定した収入を確保することができなかったという致命的な原因がある。

近代化つまり、資本主義の大量生産大量消費、食のグローバル化が進むと大打撃を受けるのは小規模な家族経営で生計を立てている人たちなのです。

例えば、安い穀物が海外から市場に流入して価格を押し下げると小規模農家を破産に追い込み、大量の農家を失業させてしまうことは御存じですか?

このことが地産地消、食料自給率を低下させることにもなるのです。

消費者が1円でも安くというという思考がこのような状況を加速しているとしたらいかがでしょう?

大量生産、一見良さそうに見えてこのような闇を抱えています。

大量生産と自然界の法則に従った本当に良い物の犠牲これは表裏一体ですね。

そして大量生産された食品の在庫を長持ちさせるために使われるのが食品添加物だったりするのですよ。このゲランドの塩に対する逆風もそうなんですけど、食のグローバル化の黒幕はDSです。

食品の流通一つ掘り下げると政治や国際問題にまで行きついてしまい、海外勢との力関係が浮き彫りになります。こういうのをコントロールしているのはDSです。

危機を乗り越える契機

だが、こうした危機が、一九七一年初頭の塩職人によるナントでの労働闘争とリゾート開発への反対運動を契機に、乗り越えられてゆくことになる。すでに少数になっていた塩職人たちは、それでも自分たちの職業を放棄しまいと生存権をかけて果敢に闘った。ナント県庁に請願デモを行なったり、ナント港での積み下ろしを実力で阻止しようとする闘争を展開した。

一九七二年五月、サン・ナゼールに陸揚げされようとしていたシシリア産の塩の荷揚げ反対闘争には、塩職人のほとんどすべてが参加し、実力で阻止がおこなわれた。彼らは製塩業が滅びるかもしれないという危機感を持っていた。 結局、県知事が仲介に入り、サラン・デュ・ミディ社は大量販売はしない、塩職人側は、販売に関して組織的な運営の努力をすることで、和解が成立した。それまでは販売はまったく個人的に塩職人それぞれが自由勝手にやっていたので、投機も起こりやすかったのである。

七一年度産の塩を、塩職人は仲買業者に全部回収させることに成功した後、彼らは後述するように統一組織「ゲランド塩生産者集団」を発足させたのだが、それはむろん、塩の集団的貯蔵と仲買業者と組織的に交渉するためであった。

ここでもまたサラン・デュ・ミディ社が出てきました。

片や大量生産大量消費の典型的な資本主義、片や昔ながらの伝統産業。

サラン・デュ・ミディ社を押し返す力と行動力は本当にすごいですが、相手はかなりの強力なライバルです。

新しい塩職人の登場

ゲランド塩田の再興運動で、もっとも決定的な役割を演じたのは「68年世代」である。この世代は、日本の戦後すぐのベビーブームで生まれた「団塊の世代」と共通する。 六八年のパリ大学ナンテール校の女子寮入寮問題が、社会や体制までを問う大きな事件となり、「六八年五月革命」ともいわれた。異議申し立てをしたこの世代を、一般に「68年世代」と呼ぶ。塩田再興運動のなかで、この世代がとくに多かったというわけではない。しかし少数の「68年世代」の人々が、塩田の未来に、ある決定的な影響を与えたことは疑いない。 社会変革の契機が与えられるのは、かならずしも大量動員によるわけではないのである。

その代表的な人物は「ゲランド塩生産者集団」 常務理事長で、サリーヌ・ド・ゲランド社社長を兼務するシャルル・ペローである。彼は四六年生まれで、モルビアン(ゲランドより北部)に住んでいた。六八年にはル・マンやナント大学の経済学部で経理と経営学を学びつつ、学生運動の渦の中で、新しい地域の社会変革を考え、模索していた。彼がゲランド塩田の再興運動の前段階に遭遇したのは、そんなときだった。

<中略>

ペローが最初にゲランド塩田に出会ったのは、六八年末に大学の経済学部で学ぶかたわら、ラ・ボウルに来たときである。生活の糧を得るためにこの町のリセ(高校)の寄宿舎の管理人の仕事をしにやって来たのだ。ふだん自然のなかを散歩するのが好きな青年が、塩田に興味を持ったとしても不思議ではない。しかし、六八年五月革命の波は全国に及び、学問を通して経済や政治の意味を再考するという視点は、ペロー青年も持っていた。それゆえ、彼は経営学を学びつつも、資本主義を前提とした実践論より、経済の意味を再考する社会科学のほうへ行きたかったのである。

ラ・ボウル滞在中に接した塩田は、瀕死の憂き目に遭っているような状態だった。古老の塩職人に話を聞いても、過去の話はおもしろいが、現在や未来を感じさせるような展望はまったく聞けなかった。だから、死滅寸前の塩田で働きたいなどとは、当初は全く思ってもみなかった。太陽の下、自然の風に吹かれて仕事する製塩業そのものに興味を持ったというよりは、そこで展開されつつあった土地の変わりように惹かれたのである。

ここで、シャルル・ペローという人が出てきます。

シンデレラの作者と偶然にも同姓同名なんですけど、もちろん別人です。

この人がゲランドの塩田に興味を持ったことがゲランドの塩の未来を大きく変えていくことになります。

「売られた半島」

一方、彼は大学のクラブ活動で演劇をしていて、演技や戯曲を研究したりしていたが、大学劇団とは別に、教師などが中心の、社会運動的な行動主義を信条とした劇団に出会った。 参加メンバーの大半が塩田地方の出身だったので、土地開発やリゾート開発で自然が破壊され、伝統が滅びてゆくという、まさに今ここの問題、塩田の崩壊」をテーマに表現しようということになった。実際、このグラントレのマリーナ(レジャー島)計画を直截に扱うことになった。団員すべてが当時の社会状況に鋭敏であった。

開発業者がただ金が儲かるということを理由に、大西洋沿岸をすべてセメント詰めにし、完全に生態系を殺してしまうようなリゾート開発をこのまま放置しておいていいのかという問題意識と、現にこの地域で起こっていることを住民にわかりやすい形で伝え、開発計画にたいし何かしなければ、という社会的関心とが結びついて、彼らの演劇活動を牽引していた。演説と討論ばかりの集会を繰り返すよりは、わかりやすく、問題を簡潔にまとめた演劇を提示し、それが議論の出発点となればいいと彼らは考えたのである。

演劇は「売られた半島」と題された。経済の発展を理由に土地を売り、開発をブローカーに委ねて、先祖代々から伝えられている遺産や自然を放棄していいのかと問いかけた舞台は、塩職人たちの集会場で初演された。大受けだった。

<中略>

公演回数はじつに八〇回以上に及んだ。社会運動といっていいこの演劇活動は、各地で反響を呼び、その後の運動へとつながる民衆的支援と共感を形成していった。ペローたちの演劇運動が、住民意識を目覚めさせ、その後のグラントレ・マリーナ計画に反対する幅広い住民意志を作りだしたのはまちがいない。新しい世代の塩職人にペロー青年は塩職人の組合結成の動きを近くで見守っていたが、マリーナ計画に反対するためには社会的政治的な闘争を展開できる組織が必要であると感じていた。彼は、組合結成とは別に、「ゲランド岬を守る実行委員会」を仲間と作った。

<中略>

大学卒業後、彼は一時、大企業に就職するが、大企業の閉鎖性と単調なサラリーマン生活に飽き足らず、二、三の企業を転々とするが、彼が望んでいた充実感は求めようがなかった。彼は会社を辞して、自分自身を考えるために塩田地方でしばらく過ごしたとき、塩田作業をする機会に恵まれた。前回の社会的政治的かかわりとは違った、純粋に塩作りを目的にしてやりはじめたところ、じつに楽しくてしかたがない。己れを心身ともに充足させる何かを塩職人の労の中に見出したのである。それは、自然のなかで身体を働かせ、汗をかく快感、また塩というとても微妙な結晶物が造られる素朴な驚きと知的な喜びなどが、相乗的に重なったものだったろう。 彼は塩職人になる決意をした。

シャルル・ペローは、まさしく新しい塩職人の先駆で、しかも外部からやって来て、その土地に入り込み、同化することに成功し、なおかつそこの伝統産業を再興することに手腕を発揮したよい例である。

ゲランド地方は長いあいだ、閉鎖的、因習的な社会だった。 外部とのコミュニケーションが少なかったから、古老の塩職人に教えを乞うこれら68年組の若者たちにたいして、年輩の塩職人たちは、最初は奇異な目で見、いぶかしげに思っていたが、次第に彼らこそ自分たちの後を引き継いでくれる新世代だということを認識しはじめた。絆はできた。新世代は大学も出ており、他の職業の経験もあり、視野が広かった。経営や集団での活動にも慣れていた。

シャルル・ペロー氏は民間出身ですが、明らかに収入の少ないゲランドの塩職人に転職する程、このゲランド塩田に魅力を感じたようです。

こういった自然相手の仕事というのは、人間関係のストレスが少なく精神的な充足につながるのです。

変な話、今日のブラック企業とか会社勤めの劣悪な人間関係も元をたどればDSが生み出したようなものなのです。

ペロー氏は2017年までゲランドの塩生産者組合の代表を務めるほどになりました。

新しい風を入れゲランドの塩業の存続をかけた闘いに大きく貢献していくことになります。

 

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