前回の続きとなります。

 

 

引き続きコリン・コバヤシさん著『ゲランドの塩物語 ─未来の生態系のために─』です。

 

 
 

 

 

ではゲランドの塩物語から引用させていただきます。

 

国内の販売は、海上輸送を介してまずナントに送られ、そこからロワール河を通して、海外には海路で運ばれた。しかし、ゲランドの塩は国内市場を中心にしてきたため、比較的安定し需要と供給関係が保たれ、国際経済の変動や圧力による影響が少なかったことから、塩田を維持してゆくことは容易だった。

簡単にまとめると、革命以前の旧制度下(アンシャン・レジーム)では、国内需要の五〇%がゲランドを含めた西海岸から、三二%が地中海から、一五%がロレーヌ地方の岩塩産地から、二%が南西部から、一%がノルマンディー、コタンタン半島の湾内から供給されており、西海岸の塩生産販売は圧倒的だったのである。

 

一九世紀末以降の塩業の斜陽

一九世紀になると、少しずつゲランドの塩は斜陽の兆候を見せ始める。それには、いくつかの理由がある。 伝統的な塩税が撤廃され、新しい塩業の世紀が来ると期待されたのだが、現実は逆だった。新税の設置によって支えられたナポレオンの帝国主義的な野望は、フランスとイギリスを不断の戦争状態に陥れ、イギリスとの塩の輸出入をいっさい禁じた。それにたいし、トラファルガーの海戦で世界最大の海軍となったイギリスはゲランドからの輸送船の通行をすべて封じたのである。

しかし、生産の大半は国内向けになったために、英海軍の待ちかまえる外洋を避け、ロワール河から直接塩田に行ける水路があったのを利用して、むしろ販売は活性化したほどであった。

ところが、砂洲がたまり始めて航行不能となったとき、海運路はまったく断たれてしまった。鉄道の発明によって陸路の輸送が期待されたが、悪天候に悩まされて収穫はひどく落ち込み、大満潮によって、一五〇の採塩地を失った。

こうして、ナポレオンの治世は、全体的にゲランドの塩業にとって不利に働いた。過去にはフランスが優勢を誇り、大きな富みをもたらした塩は、各国がそれぞれ塩生産を始めた時点において、輸出の目玉商品にもなりえず、補給商品としての価値も低下してしまった。

イギリスは自国の加熱式製塩を開始し、過去に買い手だったオランダやスカンジナヴィア諸国はイギリスと取り引きを始めた。ポルトガル、スペインは自国の塩田を拡大した。こうしてゲランドの大輸出時代は終わりを告げた。

ゲランドの塩業に危機が訪れます。

この時期がちょうどナポレオンの治世でした。

前回、ナポレオンは塩税を復活させたことを書いていますが、その理由は軍資金の調達でした。詳細は、大村大次郎さん著『お金の流れでわかる世界の歴史』に書いてあるのですが、フランス革命前から財政が厳しくデフォルトを繰り返していたので、外国から借金ができない状態だったのです。

一方イギリスは進歩的な税制と国債によって資金力がありました。もうその頃からユダヤはかなり入り込んでいましたが、18、19世紀にはイギリスは世界一の製塩国になったのです。簡単に言えばロスチャイルドのせいでイギリスは発展し、ゲランドの製塩業は逆風になってしまったということです。

イギリスの産業革命の背景にはもちろんロスチャイルドが資金を融資しています。

さらに、一八四〇年の新財政制度は、外国製の塩の輸入を制約しつつ、東部の岩塩による製塩業を一〇県にわたって独占している企業に請け負わせたため、ここでもゲランド塩は販路を少しずつ失っていった。また、この新財政制度は、新しい税金を課し、物々交換を禁止した。

それが原因で経済不況がゲランドを襲い、塩田の地代さえもが低迷した。そのせいで、多くの所有者が塩田を売りに出した。

かつては塩田は多くの場合、貴族の所有だった。塩職人は、それを賃貸し契約で借り受けて開発していた。生産した塩の四分の一を貯蔵して残りを売りに出し、その運送作業や塩田の保全作業等で収入を得ていた。

二〇世紀初頭は、塩田所有者が仲買業者を兼ねることが多く、大半の塩職人は、たとえ塩田の所有権を得ても、販売まで自分で手がけることはなかった。つまり塩職人は純粋に製造だけをおこなっていたのである。そのため、仲買業者の提示する価格に従わざるをえず、自律的な経営は望むべくもなかった。

仲買業者に対抗するための塩職人の労働組合組織の試みも、伝統的個人主義の壁にあって、うまく機能しなかった。それでもいくつかの貴重な経験があった。

一八六九年には三〇〇人ほどの塩田所有者が集まり、労働組合的組織を作り、仲買業者に対抗しようとしていた。それ以後、何回か塩職人の組織を作ろうとしたが、そのたびに挫折したものの、一九〇一年に結成された塩職人協会は、それなりの圧力を有し、三一年まで、外国塩の参入や他の新たな岩塩開発による価格の暴落を防ぐ防波堤になった時期もあったのである。

塩田が衰退していった要因はほかにもある。二つの世界大戦は、多くの労働力を消失させ、塩田にとって致命的な痛手となった。 多くの塩田は放置され、荒れ地と化していった。鉄道の発達によって、沿岸航海業がすたれたこと、市場における他の生産地の塩と競争が厳しくなってきたこと、また東部や南フランスの開発技術が改良されて、大量の塩生産が容易になってきたことや、塩に替わる新しい保存剤が開発されてきたことなども、ゲランド塩田が守勢に立たざるをえない要因となった。

 

続いて、やはり世界大戦の影響を受けていました。

この戦争の黒幕はロックフェラー、ロスチャイルド、どこもかしこもユダヤだらけ!

 

とくに、二〇世紀初頭から東部や南仏の塩田は、急速に工業化されて大量生産が可能になり、市場的にも優勢を示し始めてから、西部大西洋岸の塩は劣勢を余儀なくさせられた。ゲランドの製塩業の方法は九世紀以来、ほとんど変わらず、近代化すること自体が非常にむずかしい手工業的な側面を持っているからだ。 安定した量産は、変わりやすい天候のため保証されず、生産規模は個人主義的な開発である。

この経緯は、たとえば、一八六〇年には、西部の生産量はフランス全体の三六%(食塩市場)で、一九六〇年には三〇%と頭打ちだったことからもうかがえる。生産量全体では、南仏塩田の一〇〇万トンに比べて、わずか五万トンに過ぎなかった。

しかし、生産のほとんどすべてを食塩用に出荷しているゲランド塩と、工業塩などさまざまな用途に使われる南仏塩とは比べようがない。こうしたゲランド塩の天候による量産上の弱点が、じつはゲランドの塩の独特な性格に繋がっていることは後述する。

ゲランドの塩は完全に自然の力によるものなので、農業の露地栽培と同じで自然相手の作業となります。よって安定供給は難しいわけです。

そりゃあ、機械化の進んだ大量生産の方が製造効率はいいし、安定供給できます。しかし、ゲランドの塩レベルの上質な塩は大量生産では再現することが不可能なようです。この大量生産の南仏塩を製造している会社がライバルのカ〇ルグの塩を販売しているサラン・デュ・ミディ社だそうです。

 

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