前回の続きとなります。

 

 

引き続きコリン・コバヤシさん著『ゲランドの塩物語 ─未来の生態系のために─』です。

 

 
 

 

 

ではゲランドの塩物語から引用させていただきます。

 

現在、「ナチュール・エ・プログレ」は、認定作業よりも、生産基準の作成、実際の有機農業発展のための技術指導や改良研究、また生態系保護、バランスの取れた農食品の生産の重要性をアピールするための広報活動に重点をおいた活動をしている。

その理由は、⑴工業的な大量生産を目指した農業と、それによって値を釣り上げる仲介業者や国際的農業資本を放任してきたこと、⑵近代農業が大地を汚染してしまったこと、新しい遺伝子組み換え作物種が生態系を破壊する可能性があること、ひいては人間自身が消滅の危機にさらされていることである。そのため、九七年からはグリーンピースとともに、遺伝子組み換え農産物に反対する積極的な運動を展開している。

さて、仏農林水産省の最優秀食品に与えられる「赤ラベル」の認定作業は、農林水産省の外郭団体「優良食品推進センター(P・A・Q)」がおこなっている。生産基準は上記の基準に準ずるが、有機農業的意味での制約はかならずしも上記ほど厳しくない。しかしゲランド塩の性質や管理基準は厳密におこなわれている。製品の「赤ラベル」認定のための検査は、塩の化学成分検査、バクテリア検査(これは塩の元となっている海水も検査される)、生理学に基づいた感覚印象受容性の検査の三点、そして味覚、様相、色について(五段階採点で三以下は不合格)は、年に四度、企業の一般検査(設備、衛生面)は年に一度、抜き打ち検査四度などの厳しい検査規定をくぐり抜けねば、認定されない。

 

前回でも少し出てきた赤ラベル(ラベルルージュ)ですが、こちらで説明されています。

 

 

「ナチュール・エ・プログレ」の制定した条件だけでも厳しいのに赤ラベル認定とダブルチェックをクリアしているということは相当の品質だと見ていいと思います。

 

続いて第2章ですが、ここではブルターニュの歴史が入ってきます。

 

太古以来の歴史

 

五億年前の太古の時代は、フランス全部がアルプスとピレネー山脈を除くと、ほとんどが海に覆われていたという。そしてその頃から少しずつ大地の隆起が始まり、大きくV字形に起伏して最初に現れたのが、ブルターニュと中央山塊地方だ。だからブルターニュは、地層が大変古く、花崗岩の固い岩盤を持っている。 ブルターニュに打ち寄せる大西洋の潮の満ち引きは大きく、侵食作用も激しいが、それでも固い岩盤にはさほど大きな変化は刻まれていない。

<中略>

紀元前六世紀ころ、ゴール人(今のフランス人の祖先ともいわれる)がブルターニュに侵入、ここをアルモール (海の国)と呼んだ。その後、ローマ人が徹底して荒らしまわり、ほとんど未開の土地のようになった。移住してきたブルトン人たちがここに王国を造ってから、長いあいだ、フランスとは別の独立した国を存続させてきた。 フランス領となったのは一六世紀のことである。イギリスとフランスの長い戦い(一五世紀におこった百年戦争)のあいだも、ときにはイギリスと、ときにはフランスと同盟しながらなんとか独立を保ってきた。当時の女王アンヌ・ド・ブルターニュの娘クロードがフランス国王フランソワ一世に嫁ぐや、政治的、税制的、軍隊的特権を保有するという条件のもとに、一五三二年の併合条約でフランスに編入された。だが、一七八九年のフランス革命は、全国を平等にするというその後の政策を盾に、ブルターニュの特権を奪ったのである。だから、一六世紀の併合条約が正式には解約されていないことをもって、ブルターニュの独立を唱える人が、現在、代議員や公職についている人の中にもいまだにいる。

一八世紀後半の塩税の全国地図を見ると、ブルターニュの南端は、ノワール・ムーチエ島、レ島、オレロン島からジロンド河の右岸まで達していた。第二次世界大戦の際、ドイツ軍占領下のペタン政権は、アンジェ市を中心とする新しい地域圏を作り、ロワール・アトランティック県をそこに新しく編入してしまったため、ブルターニュの中でもっとも産業が盛んな地域がブルターニュから外されてしまった。このように、ゲランド地方はブルターニュの歴史伝統を引き継ぎながらも、行政区域としてはロワール地方に編入され、ブルターニュから見れば最も南部のはずれ、 ロワールから見れば最西部にあたるロワール・アトランティックのなかという変則的な状態になった。ブルターニュ中央のブルトン人たちは、たいへん気位が高く、ある一部の人は辺境のゲランドなどはブルターニュではないと言いはる。

しかし、地名にブルトン語起源の名が残るこの地方は、歴史的にれっきとしたブルターニュであり、住民はブルトン人の気質を持ち、ブルターニュへの再編成さえ要求している。だから、現在の行政区分はともかく、私も歴史的背景と住民の意思とを尊重して、ゲランドをブルターニュとして扱う。

 

フランソワ1世が出てきますが、こやつはフランス史では英邁な国王だとされていますが、本当は大したことないです。

当の本人は女色に溺れ、くだらぬ馬鹿げた戦争しかしてない愚か者です。

 

 

逆玉で王になれただけであり、毒母ルイーズ・ド・サヴォワの操り人形です。この女性は資料はあまりありませんが、息子を王にするためなら黒ミサや黒魔術をやっててもおかしくないくらいヤバい人です。

 

 

この2人はヨーロッパ諸国をグチャグチャに引っ掻き回したクソ親子です。。。

1532年にブルターニュはフランスに併合ですが、一応はブルターニュ三部会によって自治を保持し続けています。しかし、フランス革命で特権が奪われます。国民議会によって。国民議会の設立の立役者がタレーランで実はイルミナティです。

 

 

もちろんロスチャイルドとも関係あります。フランス革命の指導者で一般大衆から出たという人物は一人もいなかったというのが教科書では触れることのない真実ですね。

ブルターニュのナショナリズムを強めることになったきっかけがイルミナティだったのは興味深いですね。

 

続いて塩の生産とゲランドの塩の黄金期です。

塩生産の方法

 

理想的な気候と自然条件に恵まれて、定期的で大量生産をする地中海の塩に比べ、大西洋岸の塩は特に不利だったわけではない。ゲランド半島の最初の塩田整備は、塩田博物館の主任学芸員ギルダ・ビュロン氏によると、三世紀に遡り、現在使われているような塩田技術はすでに九世紀以前に存在したと考えられるという。 ルドン僧院の聖職禄記録集(八五七年)に資料が見られるからだ。大西洋岸のなかでも、ゲランド半島とブールヌッフが二大拠点だった。最初は塩田は地域の領主か近隣の都市ルドンの僧院や、ブルターニュ公の所有物だった。そしてそれが時代を経て、ブルジョアジーの所有物となってゆく。

しかし、一五世紀から一八世紀にかけて、ヨーロッパ中からの受注を受けて、ゲランド塩田はおおいに発展するのである。一六世紀から一八世紀の間に、オイエと呼ばれる採塩池はすでに三五〇〇ほど造られていた。一六世紀には生産高は約二万トン、一七世紀には塩職人が七〇〇〇人いたという。西海岸は少なくとも過疎地帯ではなかった。むしろ、製塩業で発展を続けていたというべきだろう。近代に入ると、生産高は三万五〇〇〇~四万トンに達した。

一八四〇年には、大西洋沿岸の三九カ所で、塩田が開かれていた。当時は船舶航行が可能であったロワール河やヴィレーヌ河を使っての国内輸送も大いにおこなわれた。また海上輸送で、スペイン、イギリス、オランダ、アイルランドにも輸出されていった。とくにアイルランドは牛の塩漬け製品を製造するために塩が大量に必要だったし、スペインやオランダでは、鱈の塩漬けを製造するためにも、塩の大きな需要があったのだ。

ブルターニュ内部は塩税が免除されていたため、さまざまな不正がおこなわれていた。塩は基本的には生産地は免税され、輸送や配給時に課税されたのである。 中央のパリを中心にし北の地方は大ギャベルと呼ばれて、税率がいちばん高く、南フランスは小ギャベルといわれ、その次の税率で、ブルターニュ以南の大西洋側の地方は割引プロヴァンスと呼ばれ、いちばん税率が低かった。

ゲランドの塩は質が高く、フランス国内だけでなくヨーロッパ隣国にも輸出されていました。牛の塩漬け、鱈の塩漬けという用途で使われていました。

現代の肉や養殖魚は餌に抗生物質が使われているものがほとんどです。南部どりをはじめ抗生物質不使用のところのを買うのが望ましいですが、必ずしも近くのスーパーで手に入るとは限らないので、そういった場合は天然塩で塩もみし、出てきた水と一緒に不純物も溶け出すので、拭き取ればある程度は解毒できるのだそうです。

がんで余命ゼロ宣告されたフランス料理シェフ、神尾哲男さんが紹介していた方法で、神尾さんが使っていた天然塩というのがゲランドの塩でした。

 

続いて悪名高き塩税について引用します。

塩税「ギャベル」

中国の古文書 後漢(紀元二五~二二〇年)の恒寛が著した『塩鉄論』によれば、前漢(紀元前二〇二~後八年)の武帝が、塩と鉄を専売制にし、課税したせいで、人民は苦しい生活を強いられたという。古代のエジプトやシリアでも塩税があったことは知られているし、多くの国が類似の制度を取り入れた。塩税が管理しやすく、すべての人が消費するものであったからだろう。

フランスでは昔、この塩税をギャベルと呼んだ。その背景には、そのことだけで一冊の本が書けるほど、長い歴史と多難な物語がある。ギャベルの語源は、ラテン語「ギャブルム」から派生したもので、ギャブルムもヘブライ語「ガブ」ないしはサクソン語「ゲイフェル」に語源を持ち、これらの語は物品税、とりわけ商品に対する税金を意味した。

 

一四世紀前半、シャルル四世美貌王の時代に塩税制度は設置された。その後、ヴァロア朝初代の王フィリップ六世は、もっとも重い塩税をかけたので民衆は生活にあえいだ。この税金は、税のなかでも最も長く続き、最も不人気であった。

一八世紀には塩税は、輸出の関税すべてと間接税のうち三分の一を占めていた。だが、この塩税によって、底辺層の民衆は救済されたこともあった。アンジューやメーヌ県では塩市場の三〇~四〇%が密輸品で安価だったからである。同時にまたそれは、民衆を脅かしもした。

一七八七年には、その一年間だけで、無許可や密輸の塩が四〇〇〇件も押収され、一万一〇〇〇人以上が逮捕されている。ということは、塩税の特別警察があったということなのだ。ギャベル取り立て役人の追跡は容赦なかった。牢獄、鞭、焼きごて、首吊りから、死ぬまで酷使されガレー船での苦役にいたるまで、弾圧の道具に事欠かなかった。特にルイ一四世は、大艦隊を建造して地中海に停泊させることを決定し、極悪人から塩税に違反したものも含め、多くの囚人が櫂を漕ぐ奴隷として転用されたのである。こうした弾圧にもかかわらず、塩の密輸密売はフランス革命が起こるまで続いた。

ギャベルは、革命後、タバコ税とともに廃止された。歓喜した民衆は、ギャベル取り立て役人の馬車を焼いたり、ひどい場合は、家ごと焼かれたり私刑を受けた取り立て役人もいた。ナポレオンはこの間接税を復活させたため、最終的な廃止は、一九四五年の国民議会総会で、 ギャベルの語が法律から削除され、四六年一月一日の全廃を待たなければならなかった。

ちなみに、一九〇五年に施行された日本の塩専売法も、戦争のために国費を確保すること、つまり当時の日露戦争の戦費の確保が目的であったというのが定説である。

人は塩なしでは生きられません。

塩税というのは現代でいう消費税に相当します。収入に関係なく課税ですから貧困層はきつい。古代中国では塩税が10倍だったので後々唐の時代に黄巣の乱が起き国が滅亡してます。

国が亡びる時に共通しているのが、国の財政が破綻寸前で重税を課したときなんですよね。どこもかしこも税金絡みで、税金を徴収する側は腐敗する。古代エジプトからそうでした。

いつになっても変わらないということです。

 

税金から歴史を読み解くには、大村大次郎さん著『お金の流れでわかる世界の歴史』がわかりやすいです。

 

 

今の日本も重税に重税を重ね、江戸時代の五公五民レベルなのでもう一揆が起きてもおかしくないレベルです。

ただ、今月のデモは知識を持った上で行動するならともかく、サイエントロジーという極悪カルトがバックにいるので注意が必要です。

 

また、引用の最後の方に日露戦争の戦費の確保のために塩専売法が施行とあるんですけど、日露戦争の日本に資金提供をしたのはロスチャイルドです。

日露双方ともにロスチャイルドから資金調達をして戦争を行ってます。日露戦争はロシア王朝を弱体化させロシア革命(ユダヤ革命)を起こすための布石です。

 

ゲランドの塩一つ掘り下げることでDSのことも同時に書くことになるとは、この本思った以上に良書です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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